サリンジャーの小説『ゾーイー』において、実家に戻り、自室に閉じこもりっきり心を閉ざしたままの妹のフラニーを励ますために、ゾーイー・グラースは別の部屋の電話機からフラニーの部屋に電話をかける。もう一人の兄バディのふりをして。すぐにゾーイーであることはばれてしまうけれど、奇妙なかたちでバディの声はゾーイーに憑依して残り、そこにシーモアの声が加わる。ゾーイーは何者かとなってフラニーに語り続ける。
この小説を読んだのは、確か僕が20代前半だったころ。僕はまだアメリカに住んでいた。読み浮かび上がるのは、なぜか僕自身の両親の部屋で受話器を手にするゾーイーの姿。この部屋から、僕に電話をかけるゾーイーのような存在がいてくれたら、と想像した。もちろんそんな人はいなかったけれど。あせた茶色、埃っぽい部屋。あの部屋だけ、いつも少し涼しかった。大人になって実家に帰ったとき、僕はその部屋で、ゾーイーの言葉をたどってみた。バディのふりをするゾーイーのふりをして、どこかにいるかもしれないフラニーに向けて音読する。僕は何時だってフラニーが嫌いで、でも心のどこかで共感していた。この家には、フラニーがいるようなお洒落な部屋はない。僕の部屋は、すでに物置になっている。アメリカの物語—戦争に、社会に、宗教に翻弄された家族の、あるひと時の声を、小さな沖縄の島で読み直す。埃っぽい両親の部屋から、たどたどしい発音で、かつて僕の部屋にいたかもしれない、フラニーの様な存在に語りかける。水で薄めただけのキャンベルの缶詰チキンスープを、子供の頃たしかによく飲んでいた。



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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi