Using his chalkboard, he engaged the milkman in conversations about bootleg whiskey, and even if this had made sense, the milkman wouldn’t have been able to understand, because right about this time Lefty’s English began to deteriorate. He made spelling and grammatical mistakes he’d long mastered and soon he was writing broken English and then no English at all. He made written allusions to Bursa, and now Desdemona began to worry. She knew that the backward progression of her husband’s mind could lead to only one place, back to the days when he wasn’t her husband but her brother, and she lay in bed at night awaiting the moment with trepidation.
Jeffrey Eugenides”Middlesex”(Farrar, Straus and Giroux, 2002)
ギリシャから移民としてアメリカに渡った姉弟。ふたりは結婚し、その娘と従兄弟との間に生まれた、両性具有者である主人公カリオペ。デトロイト郊外ミドルセックスに居を構える三世代の家族の物語であるジェフリー・ユージェニデスの『ミドルセックス』。そのなかに「English began to deteriorate」という表現があって、僕はなぜかdeteriorateを溶けるという意味だと長く勘違いをしていた。正しくは、状態が悪くなる、という意味でしかなかった。
うちにくる牛乳配達の黒人をジミー・ジズモと間違え、ラムの密輸に出かけるつもりで彼のトラックに乗りこむことが間々あった。黒板を使って、牛乳屋を密輸ウイスキーの話に引き込んだ。たとえ、それが意味のある話だったとしても、牛乳屋には理解できなかっただろう。というのは、そのときにはレフティーの英語力が低下しはじめていたからだ。習熟して久しい綴りや文法の間違いを犯すようになったかと思うと、英語そのものがブロークンになり、ついには、まったくできなくなってしまった。レフティーはブルサにまつわることを黒板に書くようになり、今度はデスデモーナが気が気でなくなってきた。夫の頭の中で遡行が進めば、行き着く先は一つとわかっていたからだ。それは、彼が夫ではなく、弟だった日々だった。デスデモーナは夜になると、ベッドに横たわり、おののきながらその瞬間を待った。
ジェフリー・ユージェニデス(佐々木雅子訳)『ミドルセックス』(早川書房、2004年)より
アメリカに移り住み、英語を必死で習得した祖父母のレフティーとデスデモーナ。しかし老いたレフティーは病に倒れ、発話能力を失い、混濁した記憶は遡行を始める。彼は、直近のものから少しずつ記憶を失い始める。遡る時代の流れの中で、祖父の記憶は加齢と反比例するように若返ってゆく。主人公が生まれていない頃に戻れば、レフティーの眼前から主人公の存在が消える。禁酒法の時代になればウィスキーの密輸を企てる。そして、あれだけ熱心に学び習得した英語を忘れ始め、ギリシャ語でしかコミュニケーションが出来なくなる。「彼の英語が溶けはじめた」。その表現に僕は驚く。僕の誤訳なのだけれども、日本に戻った僕が今体験し続けているのは、一度覚えた言語がゆるやかに溶け出し原形を失いはじめてる溶解としか言えないプロセスだったので、強烈だった。英語の溶解を、英語で語ることの可能性と悲しさ。それを、まるで『アルジャーノンに花束を』の様に、言語が失われていく過程を記録出来たらとふと考える。アメリカを忘れるプロセスを。すべてを忘れて、もし忘れることがあるなら、僕はフェンスの向こうの基地風景もまた変わって見えるのかもしれない。



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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi