そのとき、クリント・イーストウッドがそっと逃げ出した。ぼくの豚は海に向かって走っていく。そのピンク色の鼻が暗い海の上を少しずつ移動し、燐光が頭のまわりで青い星の王冠のように輝く。
ラッタウット・ラープチャルーンサップ(古屋美登里訳)「ガイジン」、『観光』(早川書房、2010)

僕が「感光/Sight Seeing」を始めようとしてたときに、頭から離れなかった小説があって、それはラッタウット・ラープチャルーンサップの『観光』(原題:Sightseeing)」だった。タイ系アメリカ人の著者による、デビュー短編集。表題作「観光」で、視力を失いゆく母親と電車に乗って楽園へと旅をする少年が見る風景は、細長い半島をまっすぐ走る線路と、それが隔てる茶色い海、コバルトブルーの海。線路は、輝く二つの世界を分断しながらまっすぐ進む。母親にはその風景が見えていたり、見えづらかったり。

ときどき世界は薄暗く、ぼんやりしていて、水中で目を開けているみたいな感じで、再び世界が現れてくるまでにかなり時間がかかる。
同上「観光」

僕は原書の方をずっと前に読んだ。Sightseeing。観光、眺め、視界、視力、みること、目の前の風景、光。遮断、断絶。失われゆく視力、破壊される向こう側の風景、なす術も無くただ見つめること、子供の頃の記憶、そして、まだ見ぬ新世界。それらを求め、Sight(目の前の世界)Seeing(を見る行為)。写真という、届かない場所にある光を見ようとする行為。僕はこの短編集の見せる光景が、これから撮ろうとしている写真に繋がる様な気がして、新作のシリーズを「感光/Sight Seeing」と呼ぶことにした。写真が光を記憶するプロセスとしての感光と、SightをSeeingする行為。何気ない言葉遊び。そして、この作品は「American Boyfiend」へと、沖縄へと繋がって行く。

先日読んだ翻訳版の『観光』、訳者によるあとがきには、こう記されていた。

なお、本書がガイドブックのようなタイトルになったのは原題Sightseeingの通りということもあるが、それだけではない。この言葉がsight(視力、視野、光景、景色)とseeing(見ること、視覚)の合成語であり、それが表題作の内容にぴたりと合っていることをふまえ、”光を観る”とも読める「観光」にしたのである。
同上、古屋美登里「訳者あとがき」

「光を観る」。光はいつも、向こう側に、狭間に見え隠れしていて、手を伸ばせば届くものでもない。この短編集はそんな光に満ちている。徴兵抽選会の身体検査会場で男達を挑発するトランスジェンダー。クリント・イーストウッドという名のペットの子豚。闘鶏(cockfight)に熱をあげる男達、タイ語を話せないフィリピン人少年の涙、金色の歯をもつカンボジア難民の少女、故郷に住む友人とマカロニウェスタンを観ていた幸せな時期を思い涙を流す老齢のアメリカ人男性…次々に現れる、狙いなのかもよくわからない様な不思議なクィア的表象。文庫版に寄せた訳者あとがきによれば、文庫版発売現在、著者は行方が分からなくなっているらしい。また、彼の作品がどこかで読めたら、とぼんやり願っている。




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