03_River_Production Still

南の小さな島に住んでいたころ、毎年クリスマスの時期になると、東北から発泡スチロール入りの雪だるまが小学校に送られてきた。子どもたちは、それをブルーシートの上に広げ、冬の青空のもと、輸送中にすっかり固まってしまった雪に、つめたいつめたいと騒ぎながら、お互いに投げ合って遊んでいた。それから教室に戻り、黒板に書かれた歌詞にあわせて、冬の歌をみんなで歌った。その日の終わり、日直当番で黒板を消すと、チョークの粉が雪のように舞う。それがとても奇麗で、いつもより念入りに黒板消しを動かすけど、僕の腕力では、頑張っても黒板に歌詞がぼんやりと残ってしまう。

十代の頃は冬になると、雪についてのポップソングを集めたミックステープを作って、ひとり聞いていた。雪の降らない場所についての歌だったジョニ・ミッチェルの「River」は特にお気に入りで、飽きずに毎年入れる。高校からの帰り、バスの外には夏も冬もあまり変化のない那覇の町の風景。島にいたころは、那覇に出てくれば全てが変わると思っていたのに、閉塞感は増すばかりだった。沖縄では、川を滑り降りても途方もないくらいに大きな海に行き着くだけだし、歌の主人公と違って、スケートは絶望的に下手だと思う。わからない。やったことがないのだから。

それから何年も経ち、ニューヨークに住みはじめて、冬の雪にも珍しさを感じなくなる。四年目の冬。男とボンヤリとソファに並んで座っていて、彼が好きなフォークシンガーの曲を聞いていた。川についての歌だった。そういえば、ジョニ・ミッチェルの「River」が好きだったと僕が言うと、彼は顔をしかめた。哀れな音楽がすきなんだね、と。それから僕は、すっかりジョニ・ミッチェルを聴くことをやめてしまった。影響されやすい人間だった。

また時間が経って数年後の冬、久しぶりに「River」をひとりで聞いた。かつて沖縄でこの歌を聴きながら思い描いていた風景や憧れが、チョークで消した黒板の文字のように、薄ぼんやりと思い出される。確かに、僕は子供のころ沖縄の小さな島で、雪に触れていた。雪というよりは溶けかけたかき氷のような、透き通った白いかたまり。そして、ひ弱な腕で夢中で生み出した、チョークの粉雪。それらが、僕にとっての雪の原風景。そのとき感じた高揚感は、もしかしたら、雪の降る場所で子供たちが感じていたものと、そう変わらないのかもしれない。




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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi