IMG_5935

かつてのアウラを、ただひとつしかない芸術作品への宗教的畏怖を犠牲にしてしまったとしても、我々は機械的複製において何かをその代償に得ている。
リチャード・パワーズ(柴田元幸訳)『舞踏会へ向かう三人の農夫』(みすず書房、2000年)

『舞踏会へ向かう三人の農夫』において、一人の女性の手元で一枚の写真が長い年月を過ごすことで、いつしかそれは、彼女にとってかけがえのないものへと変わる。ヨーロッパからアメリカ大陸に渡る間、そして上陸後に持ち運ばれる間、四つ折りにされ、何度も広げられた写真のヨレやオリが、「ただひとつしかない芸術作品への宗教的畏怖を犠牲にし」た機械的複製に、唯一無二の神聖さを与えた。小説において、「私」がデトロイト美術館で見たザンダーの写真は、どれだけ歴史の重みが付加されても(もしかしたら歴史の重みが付加されたからこそ)「単なる」機械的複製でしかないのかもしれない。けれども、彼女がヨーロッパで偶然手に入れ、彼女の家に飾られていたザンダーの写真は、複製であるからこそとても親密に、カジュアルに扱われ、いつしか彼女だけのものとなった。祭壇に飾られた皺だらけの、かけがえのない一枚の写真。機械的複製は、機械的複製であるがゆえに、同一のイメージがまったく違う環境のもとで、芸術として鑑賞されたり、とてもささやかな宗教的畏怖を手に入れたりする可能性がある。

半世紀、ほぼ一生涯にわたって崇められてきたそのシンプルな肖像写真は、実のところ、想像という営みを通して以外、彼女と何ら本当のつながりはないのだ…(中略)…自分自身の必要に迫られた彼女は、写真の像が融通の効くものであることを利用して、彼らと自分とをつなぐ物語をまるごとひとつ捏造した。
(同上)

『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読み終えて以来、ザンダーの三人の農夫が僕の頭の中で動き出し、僕は僕なりの舞踏会へ向かう三人の農夫を想像し続けている。そこに、いくつもの物語が、未来がうまれる。写真は、過去であると同時に、当たり前のように未来を含んでいる。それは、過去と未来が集まり、僕たちの眼前に開かれる希有な空間、T・S・エリオットの言う「巡る世界の静止の点」そのもの。それらを語り、想像することで、僕たちは写真を自らのものとする。ザンダーの切り取った瞬間。被写体たちの、それまでとその後。パワーズの描いた、写真の過去、未来、現在。その他、幾つもの「たとえば」たち。ザンダーが写し取りながらもナチスに焼かれた、星の数程の過去、未来、現在、「たとえば」。その向こうで、僕の知らない、いくつもの未来が開かれてゆく。

たとえばそこで舞踏会が開かれて、農夫だった若い兵士たちが、誰かと永遠に踊っている。僕は、それを見ることはできないけれど。

廻る世界の静止の点に。肉体があるでもなく、ないでもなく、
出発点も方向もなく、その静止の点—そこにこそ舞踏がある、
だが、抑止も運動もない。それは固定とは言えない、そこで、
過去と未来が一つに収斂するのだ。出発点もなく方向もない運動、
上昇でも下降でもない。その一点が、その静止の点がもしなければ
舞踏等存在しないだろう。だが、現実には舞踏こそ唯一の存在。
T・S・エリオット(岩崎宗治訳)『四つの四重奏』(岩波文庫、2011年)




+++
Futoshi Miyagi 2011-2013