残念ながら、文化的左派に立つ私たちは、与えられた役割を果たすのに必要以上に熱心だ。私たちが議論に招かれたところで、それは議論とは名ばかりの茶番。本質から目をそらさせるための存在として、その場所に私たちは立たされている。そこで、合衆国憲法修正第1条やいわゆる言論の自由で反論すべきではない。サーカスの視線を、私たち独自の方法論をもって、彼らが触れようとしない本質に向けさせ、それを暴露するべきだ。私たちは、憎しみや無知の流布や恐怖と戦わないといけない。歴史と事実を有効に使いながら。私たちが点と点を結ぶことを、体制側は何よりも嫌がる。
フェリックス・ゴンザレス=トレス「1990:L.A. The Gold Field」より

6月30日、夕方、永田町の駅を出て坂道を下る。向こうから、中学生たちが談笑しながら坂道をすれ違い、駅の方へと上っていた。夕暮れの薄やみのなか、何だか楽しそうに見えたけど、そう見えるように頑張ってるだけかもしれない。坂道を下りた先、警察官がちらほら見え始めた道を挟んだ反対側にいたひとりの男子が、Yの名前を叫びながらこちらに向かって手を振って、僕は顔を上げる。すぐに、後ろにいた男の子が、じゃあね!と声をあげた。シュプレヒコールと太鼓の音が聞こえはじめたけど、僕は警察官に封鎖された道路を迂回するように進んでいたために、音は近づいてはまた遠のいてゆく。東京に、その中心に、いくつもの隔たりが生まれている。やっと首相官邸近くに着いたと思ったら、あっという間に人波にもまれて身動きが取れなくなった。どうにか開けた場所を見つけ出す。熱気に気圧されて、その日は端のほうでじっとしていた。圧倒されながら、そこに入り込めない妙な心持ちを覚えた。次の日(今日)は22時ごろに行って、記者会館の駐車場からぼんやりとデモの様子を見ていた。やはり複雑な気分だった。特に、今日は。朝、辺野古の基地建設予定地で移設作業が始まったと知った。その事実が、僕をとても暗い気持ちにすると同時に、前日に感じた複雑な気持ちの原因がわかる。いつだって、沖縄のことを、つい考えてしまうからなのだ。ある思いが共有されて、真摯な声となってうねりを生むなかでひとり、辺野古に基地が作られなければいいのに、と子供じみたことしか考えられない自分に戸惑ってしまう。

今日、7月1日に起きたこと、すべてが繋がっているというのなら、これまでにも沖縄では取り返しのつかないことが何度も起きてきたはず。東京は、東京にいた僕は、その時々、何をしていただろう。もしこの二日間官邸前にいた人々が、僕が、沖縄がこれまで面してきた幾多の困難に際しきちんと行動を起こし続けていたら、もしかしたら何か変わっていたのだろうか。デモの端にいて、そんな考えをずっと拭えずにいた。同じ国であるとされる場所で起きたことなのに。東京に住んでいると沖縄のできごとが遠い国のことのように思えることがあって、僕も、南の島で起こっていることを見落としがちになってしまう。でも、まかれた点と点とを拾いあげて結び、本質を見定めなければいけない。

2008年、辺野古のビーチに行った時は、怖くてフェンスに近づけなかった。写真作品「What Lies」に写されたフェンスは、今はもうない。フェンスが取り払われたわけではもちろんなくて、今はもっと高くて威圧的な、コンクリートの土台を持ったフェンスが立っている。隔たりと言うにはあまりにも無機質で不気味な壁。辺野古での基地移設作業が始まった今日の朝、山之口貘の「沖縄よどこへ行く」を読み返した。1951年、日本復帰のずっと前に作られたその詩において、「日本に帰って来ることなのだ」と貘は言う。戦中・戦後を東京で過ごした彼の記憶にあった南のふるさとは、いつの間にか外国になっていた。日本への不信感を抱きながらも、日本に帰っておいでと言っている。その最後の一行を、何度も読み返す。

(前略)
おかげでぼくみたいなものまでも
生活の隅々まで日本語になり
めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり怒ったりするにも
人生のすべてを日本語で生きて来たのだが
戦争なんてつまらぬことを
日本の国はしたものだ

それにしても
蛇皮線の島
泡盛の島
沖縄よ
傷はひどく深いときいているのだが
元気になって帰って来ることだ
蛇皮線を忘れずに
泡盛を忘れずに
日本語の
日本に帰って来ることなのだ

山之口貘「沖縄よどこへ行く」より(『沖縄文学選』、勉誠出版、2003年)

結局沖縄は日本に帰ることはなかったのかもしれない。これから先、おかえり、と言える場所に東京は、日本はなるのだろうか。沖縄が、ただいま、と返す日は来るのだろうか。今は、どうしてもそれが想像できない。




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