津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』を読んでから、日本におけるキリシタン弾圧の歴史に興味を持つようになった。関連書籍を探している時、タイトルに惹かれてまず手にしたのが星野博美『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、2014年)だった。天正遣欧少年使節や彼らが聞き、学び、そして奏でた音楽に興味を持った著者は、実際にリュートを学び始め、音楽を通して、そして実際に長崎やヨーロッパを歩き、四人の使節やかつて日本を訪れた宣教師たちが見た世界を想像しようとする。

少年使節の4人、伊東マンショ、中浦ジュリアン、千々石ミゲル、原マルティノは、キリスト教に比較的寛容だった織田信長の時代に長崎を出発し、長い船旅の後ヨーロッパに到着、各都市をめぐり、1585年にローマで教皇グレゴリウス13世に謁見。その後海路で日本に戻ったもののキリスト教をめぐる情勢は様変わりしており、豊臣秀吉によるバレテン追放令によってキリシタンへの弾圧は日に日に強くなっていた。秀吉の機嫌を損ねないように(弾圧がさらに強まらないように)細心の注意をもって行われた謁見で、4人の少年たちは幾つかの音楽を、持ち込んだ西洋楽器で演奏した。その音楽が、何だったか現在ははっきりとわかっていないらしい。ジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」という説が有力らしいけれど、著者はそれに疑問を持っている。「千々の悲しみ」は神聖ローマ皇帝でありスペイン国王カルロス一世が愛した曲のため、現地では「皇帝の歌」と呼ばれていた。秀吉の前で、スペイン国王を讃える歌を演奏するはずがない、と。

その後もキリシタンへ弾圧はますます激しくなり、千々石ミゲルはキリスト教を棄教、伊東マンショと中浦ジュリアンはその後再びマカオに渡り、コレジオに進学。その後日本に戻ったふたりのうち、マンショは長崎で病死、ジュリアンは潜伏して布教を続けていたのもの捉えられ穴釣りの刑で殉教(同じ時に拷問を受け棄教した宣教師に、遠藤周作『沈黙』に登場するクリストヴァン・フェレイラもいた)。マンショとジュリアンに少し遅れてマカオに渡ったマルティノは、その地を終の住処とした。テキスト化された歴史として読むと、どうしても彼らがその選択に至るまでに抱いた感情や思い、そして何よりもその日常がこぼれ落ちてしまう。拷問の手法も残忍すぎて、想像を途中でやめてしまう。でも、4人が初めての海外で見た風景や聴いた音楽から受けた戸惑いや驚きは、ある程度想像ができるのではないか。4人はヨーロッパでどんな音楽を聴き、マンショとジュリアン、そしてマルティノはマカオで何を聴いたのか。ミゲルは時々、覚えた音楽を思い出したりしたんだろうか。もしそうだとしたら、どのように感じただろう。「千々の悲しみ」や後期ルネサンスの多声音楽をいろいろ聞きながら、そんなことを想像していた。




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