会場: XYZ collective
会期:2015年6月21日(日)-7月19日(日)
出展作家: 碓井ゆい、沢渡朔、ヨハンナ・ビリング、カルロス・モッタ、エイミー・ヤオ
American Boyfriendプロジェクトの一環として、グループ展の企画をしました。20世紀初頭、日系アメリカ人としてオノト・ワタンナ名義で作家活動を行った女性作家ウィニフレッド・イートンの『A Japanese Nightingale』という恋愛小説に着想を得た展示です。
もしわたしたちが社会的な生き物であり、わたしたちの生存が相互依存性の承認(それは類似性の認知によるものではないかもしれないのだが)にかかっているのであれば、わたしが生きのびるのは、孤立し境界をつけられた存在としてではなく、境界線によって自発的にそして意図せずして(時には同時にその両方のかたちで)他者にさらされている存在としてである。そのようにさらされていることこそ、社会性と生存の双方の条件なのだ。
ジュディス・バトラー (清水晶子訳)『戦争の枠組 生はいつ嘆きうるものであるか』(筑摩書房、2012)
米軍基地のフェンスに象徴される無数の境界線が社会を分断する沖縄において、たとえば「男性米軍兵と沖縄人男性との間で育まれた恋」のような、フェンス越しに存在したかもしれない密やかな関係の可能性を探るプロジェクト「American Boyfriend」。本展は、「American Boyfriend」において考え続けてきた境界線と、境界線を介した関係(それは必ずしも暴力的なものばかりではない)は普遍的に存在するのではないか、という興味に端を発している。世界中の様々な場所、様々な時代に生まれた境界を介する関係は、どのように共鳴するのか。
バトラーの言うように、「さらされていることこそ、社会性と生存の双方の条件」であるならば、隔たりに晒された関係性は普遍的なものでもあるはず。世界のさまざまな場所や時代において、言語や文化の差がもたらす誤解があり、境界線を壊してしまおうと試みるものたちが存在し、そして境界線にさらされながら同じ空気を共有しようとするものたちがいる。それは多くの場合政治家でも活動家でも芸術家でもない、ごく身近な「わたしたち」だ。わたしたちは境界線にさらされ続けている。それは対峙の場であるとともに、触れあいの可能性を秘めた領域にもなり得るのかもしれない。境界線の向こうで同じ空気を共有しているはずの「だれか」を想像し、時に手を差し伸べてみること。それは、決して無意味なことではないはず。
100年前のアメリカで、「日系アメリカ人作家オノト・ワタンナ」というペルソナを用い、日系人として小説を書いていた中国系カナダ人の女性作家ウィニフレッド・イートンは、日本を舞台にした『A Japanese Nightingale』という恋愛小説を発表し、ベストセラーとなる。しかし、その小説はタイトルから奇妙な矛盾をはらんでいる。彼女がジャパニーズ・ナイチンゲールと呼んだ鳥、ウグイスは、ナイチンゲールのように夜に鳴かない。しかし、彼女のいた場所と彼女が描いた場所は、太平洋という遥かな海で隔てられていた。それでも彼女は、物語を生み出した。
ミヤギフトシ、2015.04.20