自分のさまざまな行為を通して、私はつねに私自身の伝記を書いている。かかわり合いと知識とを混ぜあわせながら、両者がふっと消えうせ、混ぜあわせるという行為自体—それは先験的に認識可能な何かだ—をさらす瞬間に対し、おのれの正当性を弁明しながら。このプロセスは、私が他人や、自分の時代や、過去の歳月を理解するに至る道筋と大きく異なるものではない。だとすれば記憶とは、消え去った出来事をうしろ向きに取り戻すことだけではなく、前に向けて送り出すことでもあるはずだ。思い出された地点から、未来の、それに対応する状況下の瞬間すべてに向けて送り出すことでもあるはずだ。
リチャード・パワーズ(柴田元幸訳)『舞踏会へ向かう三人の農夫』(みすず書房、2000年)

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2002年12月。沖縄に里帰りして、ひょんなことでネイチャーボーイとクリスマスイヴを過ごすことになった。僕は帰郷しても友人と連絡を取りたくなくて、彼は特にクリスマスに興味がないように見えた。たしか僕は21くらいで、ネイチャーボーイはひとつ年下だった。僕が知っている彼の情報といえば、年齢、体重、身長、出身の離島くらい。メールのやりとりを、何度か。僕は別の離島出身のその少年に、親近感とエキゾチックな魅力の両方を感じていた。僕の島は中途半端な場所に存在しているけどやはり沖縄本島の文化圏に属していて、彼は宮古の出身だった。

教えられた首里の住所は、住んでいた那覇の家からも歩いて行けそうな距離だった。僕はちょうど写真を習いはじめていた時期で、ニコンの一眼レフを肩から下げて出かけた。できるなら、彼の写真を撮りたいと思っていた。写真を撮りながら金城町の石畳をのぼる。がじゅまると、ヤシの木。黒猫がいた。首里城。ウタキがある。ちいさな小径の行き止まりには、古ぼけた椅子がふたつ。そうしているうちに、彼のアパートにたどりついた。ドアをノックすると、すぐにドアが開いて彼が現れる。彼は僕より少し背が高いくらいで、ぼさぼさの長い髪からめんどくさそうにのぞく切れ長の目は自然児というよりも落ち武者みたいで、その姿に僕はほっとする。レコード・プレイヤーからはナット・キング・コールの『ネイチャー・ボーイ』が流れていて、やっと彼の名前の意味を理解する。父親やおじさんたちがジャズやブルース、クラシックをレコードでかけてくれて、そのなかの一つがナット・キング・コールだった。島ではみんなそうやって音楽を発見して自分たちのものとしていったんだ、と彼が言う。彼の住む島には、その島なりの文化があるみたいだ。『ネイチャー・ボーイ』は僕が「発見」したのだ、と彼が言った。変なことを言う人だと思ったけど、その音楽をシェアしてくれているというのはどこか嬉しくもあった。

それから真夜中まで泡盛を飲んで、ネイチャーボーイは自分の家族について語りはじめた。両親が離婚して、姉を父親が、彼を母親が育てることになり、それがショックだったこと。なぜ父親は自分を選ばなかったんだろう。ナット・キング・コールのレコードは、父親の部屋にあったものを盗んできたもので、もう二年も島には帰っていない絶対に正月も成人式も島に帰らない。そこまで言って彼が泣いて、僕はその唐突な感情の発露にどうしていいかわからず、テーブルのこちら側で固まる。こうすればいいのかなと自分の手を彼の手の上にそっと動かしてゆく。ぽたぽたと畳に涙があたって涙ってあんな音がするのかと思いながら手を下ろしかけたところで、彼がすっと手を引いて泡盛をあおった。僕は馬鹿らしくなって自分のグラスをあけた。僕たちはどんどん酔っぱらって、さまざまな小さな問題と大きな問題についての告白をかさねた。ぽたぽたと音がする。空が白みはじめた頃、彼がタバコをくゆらせながら、先ほどのレコードを取り出してプレイヤーにおろす。ケースはぼろぼろだったけれど、大切に扱われているのは見てわかる。僕は少しずつ『ネイチャー・ボーイ』を好きになっていた。曲がおわり、またねと握手して僕は部屋をでた。クリスマスの朝だった。僕は彼の部屋にカメラを忘れてしまう。彼の写真を撮ることはかなわなかった。撮っていれば良かったと今でも時々思う。その日のことを思い出せば、ネイチャーボーイの顔や、彼や僕が抱えていたはずのさまざまな問題はすっかり記憶から消えている。彼がそこにいたというぼんやりとした感情だけが、『ネイチャー・ボーイ』のメロディーとともに、立ち現れてはきえてゆく。もしも写真を撮っていたら、十年後の今、それはどのように風化し、どのようなアウラをたたえているのだろう。

通っていた中学校の音楽室にはどこの中学校の音楽室にもあるようなベートーヴェンの肖像が貼られていて、どこの中学生でもそうするように、ベートーヴェンの両目には金色の押しピンが刺されていた。そして僕たちは、第九や第五をきいてはクスクス笑っていた。第二次大戦中にもベートーヴェンは色々な国で色々な思惑のもと演奏されていたようで、連合国ではひとびとが交響曲第五番を勝利の歌とし、日本には実話をもとにしたと言われる『月光の夏』なんて小説もある。ドイツでも、ヒトラー誕生日のフルトヴェングラー指揮による交響曲第九番演奏会の映像がYouTubeに上がっている。たとえば終戦後、島に上陸した米軍のラジオからもベートーヴェンが、例えば弦楽四重奏の13番なんかが流れていたのかもしれない。
中学生の頃、校庭を掃除していると二階の音楽室から先生がピアノをひく音が聞こえてきて、とても奇麗だと思っていたら、誰かが隣で、先生!と大きな声を上げた。音楽が止み、先生がおばけのように窓に現れる。先生、何ていう曲ですか。先生が窓から身を乗り出して、大げさに夏の光の中に躍り出る。「アデライーデ!」
そんなことはそれから忘れてしまっていた。ずっと後になって、ニューヨークに住んでいた時、友人ふたりに連れられていったレストランでこの曲が流れていて、急に思い出したのだ。この曲知っていると言うと、ベートーヴェンだ、とひとりが言った。さすがディレッタントだねともうひとりの友人がからかった。ディレッタントの意味がわからなかったけど、彼はその詩をつらつらと英語で教えてくれる。なんて凡庸な詩なんだろう、と僕は少しがっかりした。そう、「アデライーデ」。
夜のそよかぜが 若葉をそっとさざめかせ
5月のすずらんが 風の中でそよぎ
波がうねり ナイチンゲールがうたう
アデライーデ!
マティソン『アデライーデ』(wikipediaより)
ニューヨークのレストランでその曲を聴きながら、僕は島のことを思い出していた。先生に向かって叫んだYの横顔、その輪郭を描こうとした。記憶の線はゆらぎながら、輪郭を作り上げる前に背景の木々や校舎を描いて、窓枠から先生の側を通り抜けて音楽室、ピアノの鍵盤を走って校舎の向こう側に流れていった。二階のはずれにある音楽室の窓からは校舎の反対側にある裏山が見えて、そこには慰霊碑がぽつりと立っている、子供の頃は何のための碑なのかはわからなかったけれど、夏の日には先生たちに連れられてそこで黙祷をささげていた。子供だったから得に何のために祈っていたのかも知らない。記憶の線はそこで途切れて、声とピアノの音だけが聴こえる。まだ曲は終わっていない。
いつか あぁ奇跡が 僕の墓の上に花ひらく
僕の心の灰から 咲いた一輪
そしてあざやかに はなびら一枚一枚がきらめく
アデライーデ!
きれいな曲ですね。彼が言う側で僕は思っていた。よく言うよ、肖像画に押しピン刺したくせに。

『リリー・マルレーン』を聞いて、何となくベジャールの踊り『恋する兵士』を思い出した。YouTubeで検索するとジョルジュ・ドンの映像が出て来て、踊りの前に誰かが「滅びゆく者たちの最後の踊りだ」と叫び僕はどきりとする。恋する兵士は何時だって美しくて、それは彼が滅びゆくからにほかならないという悲しさ。ドンがどれだけ陽気に踊っても、この兵士は死んでしまうのだろう。リリー・マルレーンに恋する兵士のように。この曲も、第一次世界大戦の兵士の初恋(そして最後の恋)相手を思う気持ちをうたったものらしい。
恋する兵士に感情移入してしまうことは危ういことで、兵士の周りではやし立てる人間たちの残酷さも知っている。それでも踊るドンは美しい。子供のように喜びと悲しみを爆発させる男。中学3年の頃バスケ部の練習が終わった中庭、友人がもってきたCDに合わせて上半身裸でわけのわからないダンスを踊るY。何事かと野球部の男子たちも覗きにくる。顧問の先生は陽気だねぇと笑っていて、女子たちはだれも相手にしていなくて、薄やみのどこかで小さな虫が鳴いていた。男子たちが何人か加わり、輪になってオーオーオーとはやし立てる。僕は部室のドアにもたれてその光景に見とれていた。全員入部制の学校には野球部とバスケ部しかなくて、嫌々バスケ部に入っていた僕は練習が終わる度にこの上ない開放感を覚えた。疲れた体から汗が乾いて体が少し軽くなり、うっとりと自由を味わう。でも、3年になってもうすぐ部活も終わる。Yを目にする時間も減ってしまうのだろう。Yが僕のところにやって来て踊ろうぜ踊ろうぜと手をひいた。僕は驚いていやだと笑ってその手を払った。Yは照れてると言ったあとラララララと両手を広げて中庭の中心へと戻っていった。夜が急速に近づき一幕の終わりのように帳をおろした。

作業中数人の米兵が私たちをとり巻き、「トウキョーバーン、オーサカバーン、ヨコハマバーン」と口々にいった。日本中の都市が爆撃で焼かれたことを私たちに知らせようとしているのだとわかった。また戦艦大和が撃沈されて、日本には軍艦も飛行機もなくなったことを知っているか、と何度も訊いた。作業が終わると、私たちを椅子にかけさせてラジオのダイヤルを回した。ラジオからは日本の流行歌が流れてきた。「潮来出島に咲く花は 噂ばかりで散るそうな 同じ流れを行く身なら 泣いておやりよ真菰月」。懐かしい女性歌手の唱声が胸にジーンときた。米兵は私たちに、「東京ローズを知っているか」と何度も訊いたが、何のことかわからなかった。
渡辺憲央『逃げる兵』(文芸社、2000年)より
僕が生まれた島の浜辺、収容所にいたふたりの日本兵がアメリカ兵たちとともにラジオを聞いていた。日本のラジオだ。米兵たちが夢中になっていた東京ローズはどんな曲をラジオで流していたのだろうか。東京ローズとは、『リリー・マルレーン』のハンナ・シグラのような存在なんだろうか。ファスビンダーの駄作と揶揄されるその映画で、シグラはハーケンクロイツの前で『リリー・マルレーン』を歌い、確かにそのシーンだけいまでも良く覚えている。その歌は、ララ・アンデルセンやマレーネ・ディートリヒがじっさい第二次大戦中に歌い兵士たちの心を安らげたという。ドイツ軍のみならずイギリス軍もこの曲に耳を傾けたそうだけれど、ドイツの言葉がわからないイギリスの兵士達はどのような思いでこの曲を聞いていたのか、わからないからこそ素直に耳を傾けたのだろうか。そして、日本のラジオで、この曲がながれたことはあったのだろうか。
兵営の前、門の向かいに
街灯が立っていたね
今もあるのなら、そこで会おう
また街灯のそばで会おうよ
昔みたいに リリー・マルレーン
(中略)
もう長いあいだ見ていない
毎晩聞いていた、君の靴の音
やってくる君の姿
俺にツキがなく、もしものことがあったなら
あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
誰が君と一緒にいるんだろう
恋する兵士の歌は、どこか沖縄の『西武門節』やアメリカ兵が歌う『Road to Naminoue』にも似ている。そこにはいつも、門が、ゲートがあって二人を分かつ。こちら側と向こう側をふわりと飛び越える音楽はたしかに存在していたけれど、人間たちは音楽という永遠のなかで、いつまでも引き裂かれたまま。それは少し、残酷でもある。

子供の頃、僕の生まれた島は戦争の影響を受けなかったと聞かされていたけど、実際には空襲も受けていて、そして残留日本兵がずいぶん酷いことをしたようだけど、家族や親戚、教師たちからそのようなことを知らされた記憶は僕にはない。身近なひとたちの深い傷跡が癒えるようにと過去を隠してきたのかもしれない。そんな風に戦争が見えなくなった場所で、アメリカに憧れていたこと。戦争や基地というものへの距離感。なんだか、もっともなことに思えた。
半分おとぎ話として認識していた、浜辺に漂流した兵士たちも確かに存在したようだった。沖縄戦が終わる少し前に、沖縄本島から漂流してきた日本人の逃走兵たち。そのうち数名は、すでに島にいた日本軍に殺されたらしい。おとぎ話では兵士たちは生き抜いていたような気がしてならないけど。両親や島の人間に聞けるはずもないし、この先もおそらく聞くことはない。僕は少しの本を手がかりに、このぼんやりとした逃走兵たちの存在について知りはじめている。
私はいつの間にか意識が朦朧としてきた。ギラギラ光っていた夜光虫の群れがやがて大きくふくれあがったかと思うと、間もなく髑髏の群れとなって舟のまわりをとり巻いた。髑髏たちは口々に「お前は俺たちを見捨てて逃げて行くのか」と罵った。
渡辺憲央『逃げる兵』(文芸社、2000年)
逃走兵たちは、夜の嵐を抜け、島の浜辺に打ち上げられた。数日後にその浜辺にアメリカ軍が上陸し、米軍の活動拠点がつくられた。逃走兵のうち何人かはその浜辺に戻って自らの意思で捕虜となり、何人かは米兵や日本兵に銃殺された。そしてその浜辺は、Yの家のそば、僕たちがいつかブルーシールを食べた場所だった。Yはその歴史について知っていたのだろうか。
その浜辺に、成人式のあとの夜みんなでビール片手に連れ立っていったことを覚えている。みんなと会うのはとても久しぶりだった。夜の砂浜は信じられないくらい真っ暗で、波の音だけが大きかった。誰かが砂浜のまんなかで焚火を始めていたけど、みんな疲れたのか散り散りになって、あてもなく歩き回ったり、空を見上げたり、仰向けにねころんだりしていた。僕は少し寂しげな火から離れて、水辺で砂をいじっていた。手を柔らかい砂にもぐらせると青白くわずかに発光するなにかが出てきて、手のひらに載せると、ぼう、っとすこし強い光を発した。暗くてよく見えないけど、生きている。僕は驚いて近くに立っていた誰かに、海ボタルだ、と手のひらを差し出した。Yだった。彼は夜釣り用の浮き輪だろうとなぜか気の無い返事をしてビールをあおっただけだった。オレンジ色の炎を背後に青白く浮かび上がる沖縄の人間らしくないさらりとした横顔に僕は一時期たしかに夢中だったけれど、彼と会ったのもそれが最後だった。誰かがMDプレイヤーと携帯用スピーカーで昔のしめっぽい音楽を流しはじめた。センチメンタルだね、とYが笑うと「マレーネ・ディートリヒだ」と誰かが答えた。僕は冷たい水に手を突っ込んで光る何かを海にかえした。

サリンジャーの小説『ゾーイー』において、実家に戻り、自室に閉じこもりっきり心を閉ざしたままの妹のフラニーを励ますために、ゾーイー・グラースは別の部屋の電話機からフラニーの部屋に電話をかける。もう一人の兄バディのふりをして。すぐにゾーイーであることはばれてしまうけれど、奇妙なかたちでバディの声はゾーイーに憑依して残り、そこにシーモアの声が加わる。ゾーイーは何者かとなってフラニーに語り続ける。
この小説を読んだのは、確か僕が20代前半だったころ。僕はまだアメリカに住んでいた。読み浮かび上がるのは、なぜか僕自身の両親の部屋で受話器を手にするゾーイーの姿。この部屋から、僕に電話をかけるゾーイーのような存在がいてくれたら、と想像した。もちろんそんな人はいなかったけれど。あせた茶色、埃っぽい部屋。あの部屋だけ、いつも少し涼しかった。大人になって実家に帰ったとき、僕はその部屋で、ゾーイーの言葉をたどってみた。バディのふりをするゾーイーのふりをして、どこかにいるかもしれないフラニーに向けて音読する。僕は何時だってフラニーが嫌いで、でも心のどこかで共感していた。この家には、フラニーがいるようなお洒落な部屋はない。僕の部屋は、すでに物置になっている。アメリカの物語—戦争に、社会に、宗教に翻弄された家族の、あるひと時の声を、小さな沖縄の島で読み直す。埃っぽい両親の部屋から、たどたどしい発音で、かつて僕の部屋にいたかもしれない、フラニーの様な存在に語りかける。水で薄めただけのキャンベルの缶詰チキンスープを、子供の頃たしかによく飲んでいた。

Using his chalkboard, he engaged the milkman in conversations about bootleg whiskey, and even if this had made sense, the milkman wouldn’t have been able to understand, because right about this time Lefty’s English began to deteriorate. He made spelling and grammatical mistakes he’d long mastered and soon he was writing broken English and then no English at all. He made written allusions to Bursa, and now Desdemona began to worry. She knew that the backward progression of her husband’s mind could lead to only one place, back to the days when he wasn’t her husband but her brother, and she lay in bed at night awaiting the moment with trepidation.
Jeffrey Eugenides”Middlesex”(Farrar, Straus and Giroux, 2002)
ギリシャから移民としてアメリカに渡った姉弟。ふたりは結婚し、その娘と従兄弟との間に生まれた、両性具有者である主人公カリオペ。デトロイト郊外ミドルセックスに居を構える三世代の家族の物語であるジェフリー・ユージェニデスの『ミドルセックス』。そのなかに「English began to deteriorate」という表現があって、僕はなぜかdeteriorateを溶けるという意味だと長く勘違いをしていた。正しくは、状態が悪くなる、という意味でしかなかった。
うちにくる牛乳配達の黒人をジミー・ジズモと間違え、ラムの密輸に出かけるつもりで彼のトラックに乗りこむことが間々あった。黒板を使って、牛乳屋を密輸ウイスキーの話に引き込んだ。たとえ、それが意味のある話だったとしても、牛乳屋には理解できなかっただろう。というのは、そのときにはレフティーの英語力が低下しはじめていたからだ。習熟して久しい綴りや文法の間違いを犯すようになったかと思うと、英語そのものがブロークンになり、ついには、まったくできなくなってしまった。レフティーはブルサにまつわることを黒板に書くようになり、今度はデスデモーナが気が気でなくなってきた。夫の頭の中で遡行が進めば、行き着く先は一つとわかっていたからだ。それは、彼が夫ではなく、弟だった日々だった。デスデモーナは夜になると、ベッドに横たわり、おののきながらその瞬間を待った。
ジェフリー・ユージェニデス(佐々木雅子訳)『ミドルセックス』(早川書房、2004年)より
アメリカに移り住み、英語を必死で習得した祖父母のレフティーとデスデモーナ。しかし老いたレフティーは病に倒れ、発話能力を失い、混濁した記憶は遡行を始める。彼は、直近のものから少しずつ記憶を失い始める。遡る時代の流れの中で、祖父の記憶は加齢と反比例するように若返ってゆく。主人公が生まれていない頃に戻れば、レフティーの眼前から主人公の存在が消える。禁酒法の時代になればウィスキーの密輸を企てる。そして、あれだけ熱心に学び習得した英語を忘れ始め、ギリシャ語でしかコミュニケーションが出来なくなる。「彼の英語が溶けはじめた」。その表現に僕は驚く。僕の誤訳なのだけれども、日本に戻った僕が今体験し続けているのは、一度覚えた言語がゆるやかに溶け出し原形を失いはじめてる溶解としか言えないプロセスだったので、強烈だった。英語の溶解を、英語で語ることの可能性と悲しさ。それを、まるで『アルジャーノンに花束を』の様に、言語が失われていく過程を記録出来たらとふと考える。アメリカを忘れるプロセスを。すべてを忘れて、もし忘れることがあるなら、僕はフェンスの向こうの基地風景もまた変わって見えるのかもしれない。



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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi