アメリカにいた時に見たミニシアター系の映画『Old Joy』。原作はジョナサン・レイモンドの短編小説で、書籍のカバーや中ページの至るところにジャスティン・カーランドの写真(深い森のなかに佇む裸のひとびと。小説も彼女の作品から着想を得たそう)が挿入されていた。しばらくしてケリー・ライヒャルトによって映画化され、大好きだったミュージシャン、ウィル・オールダムが主演していると知った僕は、すぐに劇場に観に行った。

映画は、ヒッピーかぶれの自由人カート(オールダム)ともうすぐ父親になるマーク(ダニエル・ロンドン)、ふたりの親友がオレゴンの山奥にある秘境の温泉を目指す短い旅を描く。二人は森で迷い、キャンプをし(いっしょのテントで寝てもいいかな)、そして温泉を見つける。マークは将来の不安に押しつぶされそうで、カートはただ彼の側にいて、時々ふれあう。木で出来た別々の湯船。リラックスして…。カートは湯船から出て、お湯に浸かって目を閉じているマークの裸の肩をマッサージする。『ブロークバック・マウンテン』ともまた違う、男ふたりの、性的にもどこか曖昧な関係性を描くこの映画について、NYタイムスの記者はこう書いている。

(レイモンドは)フリー・ラヴや近年のRiot Grrrlフェミニズムの流れを汲んだともいえる、この地方特有の「柔らかな男性性」に惹かれたという。『Old Joy』は、いかにこの繊細な男らしさが、まわり回って受動的攻撃性になりうるかというねじれを描く。
デニス・リム「Change is a Force of Nature」(New York Times, 2006)

今では内容もほとんど覚えいていないけれど、なぜかこの映画の断片が記憶に留まり続けている。『ブロークバック・マウンテン』と時期を同じくしてリリースされ、何となく似たテーマを持った作品だったからかもしれない。またはこの映画が、僕の大好きなオールダム(=ボニー・プリンス・ビリー)の曲『I See A Darkness』と共鳴する部分があったからかもしれない。この曲を聞くと、僕はある夜のことを思い出す。

闇を、みたことがある。中学生のころ、夏の夜に、Yが自転車でうちまで送ってくれた。学校裏の丘の道、街灯もほとんどないような暗い坂道、Yは息をたてながら自転車を漕いでいる。僕はその後ろで、彼に触れないように荷台のポールを後ろ手に握っていた。目の前には、Yの白いシャツの背中、森、星空、カーブを描く舗装道路。もうすぐ墓地の前を通るから目を閉じて、Yが風のように通る声で囁いた。幽霊見たらマブイ落とすよ!この年になってまで馬鹿みたいだと思いながらも、少し怖くて僕は目を閉じる。暗闇が、広がる。月の裏側に放り出されたような、不思議な安心感に体を委ねた。そっちは、目を閉じなくていいの?と闇の向こうにいるYに、僕は聞く。俺は大丈夫、彼は答えた。変なの、と思いながら、僕はポールから離した両手を闇の中に広げた。風の音が少し変わり、山頂に着いたことがわかった。まもなく逆風が吹き、いつものオーデコロンの匂いを感じると同時にバランスを崩して、僕はあわててYの肩に手をかけた。急に触れられて、Yがわぁと鋭い声を出した。僕は目を開いた。カーブの向こうに、見慣れた集落の光の列が見え始めていた。もう少しで、光のある場所につく。やっぱ怖いんだ、僕は言って、それから、二人でわざと声をあげて笑った。

例えばいつか 僕たちの心は穏やかで
たとえ一緒にいられなくても
ふたりとも結婚していても ひとりきりでも
夜遊びはやめて 微笑みは心のなかで
永遠に消えることなく 眠ることすら忘れて
君は僕の汚れなき兄弟だから
でも またみえてくる

だめだ 僕はまた闇をみる
僕は闇をみる 闇をみる 闇をみる
なぁ 君をどんなに愛したことか
待っててもいいかな 君が 君が僕を
この闇から連れ出してくれることを
ボニー・プリンス・ビリー「I See A Darkness」より


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南の小さな島に住んでいたころ、毎年クリスマスの時期になると、東北から発泡スチロール入りの雪だるまが小学校に送られてきた。子どもたちは、それをブルーシートの上に広げ、冬の青空のもと、輸送中にすっかり固まってしまった雪に、つめたいつめたいと騒ぎながら、お互いに投げ合って遊んでいた。それから教室に戻り、黒板に書かれた歌詞にあわせて、冬の歌をみんなで歌った。その日の終わり、日直当番で黒板を消すと、チョークの粉が雪のように舞う。それがとても奇麗で、いつもより念入りに黒板消しを動かすけど、僕の腕力では、頑張っても黒板に歌詞がぼんやりと残ってしまう。

十代の頃は冬になると、雪についてのポップソングを集めたミックステープを作って、ひとり聞いていた。雪の降らない場所についての歌だったジョニ・ミッチェルの「River」は特にお気に入りで、飽きずに毎年入れる。高校からの帰り、バスの外には夏も冬もあまり変化のない那覇の町の風景。島にいたころは、那覇に出てくれば全てが変わると思っていたのに、閉塞感は増すばかりだった。沖縄では、川を滑り降りても途方もないくらいに大きな海に行き着くだけだし、歌の主人公と違って、スケートは絶望的に下手だと思う。わからない。やったことがないのだから。

それから何年も経ち、ニューヨークに住みはじめて、冬の雪にも珍しさを感じなくなる。四年目の冬。男とボンヤリとソファに並んで座っていて、彼が好きなフォークシンガーの曲を聞いていた。川についての歌だった。そういえば、ジョニ・ミッチェルの「River」が好きだったと僕が言うと、彼は顔をしかめた。哀れな音楽がすきなんだね、と。それから僕は、すっかりジョニ・ミッチェルを聴くことをやめてしまった。影響されやすい人間だった。

また時間が経って数年後の冬、久しぶりに「River」をひとりで聞いた。かつて沖縄でこの歌を聴きながら思い描いていた風景や憧れが、チョークで消した黒板の文字のように、薄ぼんやりと思い出される。確かに、僕は子供のころ沖縄の小さな島で、雪に触れていた。雪というよりは溶けかけたかき氷のような、透き通った白いかたまり。そして、ひ弱な腕で夢中で生み出した、チョークの粉雪。それらが、僕にとっての雪の原風景。そのとき感じた高揚感は、もしかしたら、雪の降る場所で子供たちが感じていたものと、そう変わらないのかもしれない。

1950年代アメリカ。マッカーシー批判を展開したエドワード・R・マローの番組『See It Now』とともに、マッカーシズムの終焉を決定づけた、陸軍・マッカーシー公聴会。陸軍通信部隊内に共産党への協力者が存在すると主張したマッカーシーと陸軍との間で行われたこの公聴会はテレビ中継され、マッカーシーは国民の支持を急速に失ってゆく。その公聴会において、陸軍顧問弁護士のジョセフ・ウェルチがマッカーシーに言う。「Have you no sense of decency (恥は無いのか)」と。その時マッカーシー側には若き検察官ロイ・コーンがいた。彼は初代FBI長官のジョン・エドガー・フーバーとも親交があり、彼らは、同性愛者と共産党との繋がりを疑い、多くの政府職員(時に異性愛者の職員も)を同性愛=共産党協力者であるとして退職に追い込んでいた。マッカーシズムの赤狩り(Red Scare)と切り離せないこの同性愛者への弾圧は、Lavendar Scareとも呼ばれている。

この台詞はまた、エイズ危機時代のニューヨークに生きる若者たちを描いたテレビ映画『エンジェルス・イン・アメリカ』(監督:マイク・ニコルズ、脚本:トニー・クシュナー、もとは舞台作品)の中、連邦裁判所に勤務するタイピスト、ルイスにより発せられることになる。言われた相手は、クローゼットから出ることのできないゲイの若手書記官ジョー。ルイスは、恋人のプライアーからHIV陽性であることを告白され、動揺して彼のもとを去る。その後、職場で知り合ったジョーと親しくなっていた。ルイスは、弁護士に転身し今なおホモフォビックな言動を繰り返すロイ・コーンとジョーが親交を持っていることを知り、食ってかかる。

『恥は無いのか?この期におよんで、恥は無いのか?』これ、誰が言ったか知ってる?
ジョセフ・ウェルチだよ。陸軍・マッカーシー公聴会においてね。ロイに聞いてみな。教えてくれるから。知ってるはずだ、彼はそこにいたんだから。ロイ・コーンだよ。君まさか、あいつとセックスしたのか?
トニー・クシュナー脚本『エンジェルス・イン・アメリカ』(2003, HBO)
フィクション作品である『エンジェルス・イン・アメリカ』においてアル・パチーノ演じるロイ・コーンはクローゼテッド・ゲイとして描かれている*。恥はないのか…そのセリフが、数十年を超えてフィクションという形で奇妙な反復を見せる。かつて赤狩りと同性愛者弾圧の急先鋒だった、(ゲイだったとされる)コーンやフーヴァーと、その対象となっていた同性愛者たち。そして、エイズ危機の時代の同性愛者たちと、ロイ・コーン(彼はエイズであると診断されながら、最後まで自身の病名を肝臓がんとしていた)。どちらも(陸軍・マッカーシー公聴会での発言は間接的ながら)、同性愛を弾圧するクローゼッテッド・ゲイを批判するという、哀しいねじれを提示する。

そのような、言葉の反復の有効性を考えている。それは、国や言葉を超えても有効なのか。恥はないのか…この言葉は、例えば沖縄と日本とアメリカの関係性の物語にも、もしかしたら有効なのかもしれないし、すべては無関係で繋がりなど無いのかもしれない。それでも、その言葉がもつ時間や場所を飛び越えてしまう小さな可能性を、捨てきれずにいる。その時、その言葉の向かう先には、誰がいるだろう。

*先の陸軍・マッカーシー公聴会において、ウェルチはコーンが同性愛者であるとほのめかす発言をしている。コーンと親しい関係にあったマッカーシーのもう一人の側近、G・デイヴィッド・シャインが徴兵された際、マッカーシーのもとでシャインが活動を継続できるよう陸軍に圧力をかけたと批判されていた時のことだった。コーンが証拠写真を提出したときのこと。

ウェルチ「この証拠写真の出所は、ピクシーでしょうか?」
マッカーシー「すみません、氏は良くご存知なのでしょう、ピクシーが何であるか教えて頂きたいのですが」
ウェルチ「もちろん。ピクシーはフェアリー(=ゲイの隠語)の近親にあたります」
陸軍・マッカーシー公聴会より

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起きたかもしれないできごとの集まり、それが歴史と言うもの。僕たちは物語の欠片を取捨選択してモンタージュとして仕上げ、自分が誰なのかについての物語を再生する。僕は歴史が偽りに満ちているところに惹かれる。物語が、それぞれ一人歩きしてゆくことも。そうした流れのなかで、真実はゆらぎ、とりとめのない事になってゆく。
キルスティ・ベル、T.J.ウィルコックスインタビュー「Sunrise to Senset」(Frieze #157, 2013年9月)

2013年10月。20年ぶりに見るひめゆりの塔は、大きな声で騒ぐ修学旅行生たちに囲まれていて賑やかだった。これはこれで、いいのかな、と思いながら、平和祈念館の中を復習するようにまわる。僕自身は、戦後については(それがいつを指すのかという問題はあるけど)ある程度想像できるし、体験しているとも言える。けれど、戦争を想像することはとても困難だった。僕が今まで戦争を一番近く感じたのは小学四年生の頃、湾岸戦争が始まったとき。僕は那覇に住んでいて、その頃確か母親は大きな病気で入院していた。沖縄はとても緊迫した空気に包まれていて、それは子供の僕にも感じることができた。ひとりで、こっそり怖がっていたことを今も覚えている。

戦争体験者の語りを聞くたび、その人たちと僕との間に存在する断絶に戸惑う。体験者が語る戦争とは二度と起きてはならないこと。でも、戦争を知らない世代が戦争を語るとき、それが克服すべきものに聞こえてしまうのはなぜだろうとずっと考えていた。そう読み取ってしまいがちな僕の想像力の限界(もしくは物語の限界)なのかもしれないけれど。そういうこともあり、ずっと、戦争を語る資格なんてないと思っていて、戦後はモチーフに出来ても、戦争を取り扱うことについての迷いがあった。そんな時に読んだ本のなかで、長崎で原爆投下を体験した林京子がインタビューでこう語っていた。

しかし、わたくし自身は限度があると思います。自分が被爆者ですから。いちばん大事にしていることは、事実を歪めてはいけない、ということです。膨らませてもいけない。でも、実際には相当に大きく構え、もっと感情を交えて書かないと、本当の意味での「被爆」は書けないのではないかとも思っています。もっとナマの感情をぶつけていくような小説もあるのではないか……。(中略)ぜひ、外から見て、自由に書いて欲しい。たとえば被爆者の批判でもいいんです。ああいう生き方はおかしい、と書いてくださってもいいと、わたくしは思います。どんな形でも新しい書き手がどんどん出てくることが大切で、それが伝えていく、忘れないということなんだと思うんです。
陣野俊史『戦争へ、文学へ』(集英社、2011年)

真実のありかなんて、僕にはわからない。ウェブの世界で物語が書き換えられるなか、忘れないだけでは駄目だということも知っている。TJウィルコックスの言うような、取捨の選択肢を出来る限り多様にするしかないのかもしれない。

資料館、出口の脇にある部屋で、戦後のひめゆりの女性たちによる記念館設立までを巡るパネル展示があって、そこは修学旅行生たちのコースからは外れているのか、人もまばらだった。1950年ごろ、いまよりずっとささやかなひめゆりの塔が建造され、その前で集まった彼女たちは20代なかばだろうか、その中のひとりの腕のなかに、赤ちゃんがいた。僕は、僕と同い年の頃に僕を抱きながらカメラに向かう母親の写真を思い出した。

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リゾートホテルにもすぐに飽きて、僕は実家を訪ねた。徒歩十分。自分の部屋、学習机をあさっていると古いアルバムがでてきて、それは中学校の修学旅行のアルバムだった。持ち上げると、きちんと収められていなかった写真が二枚落ちる。どちらもYの写真だった。バスの中でカメラに向かってピースをしているもの。布団にくるまれて目を閉じているもの(寝ている彼を、みんなとふざけてるふりして撮ったのかもしれない)。

14歳の頃、修学旅行が終わり写真が現像され、僕は写真屋でもらったアルバムに写真を注意深く、時系列に並べた。たくさん撮ったように思えたけどアルバム一冊にも満たなくて、そのなかでYが一人で写っているのは二枚。その二枚をそっと抜き出して、ぼんやりと眺める。どちらもそんなにいい写りの写真ではなくてがっかりした。ある日学校が終わってみんなが部屋に遊びにきたとき、ひとりがアルバムを手に取った。修学旅行の写真だ、と開くと写真が二枚ひらりと床に落ちた。おまえ、Yがすきなの!と彼が言う。僕は返事に困り、まごついてしまう。ベッドに腰掛けていたYは少し困った顔で窓のそとに顔を向けた。すると、もう一人が、誰に頼まれたんだ?と聞いて、僕はここで態度を変えてはいけないと慎重に口をつぐんでみる。誰に?もう一度聞かれた頃に、Yが、やめなよ、と言った。

僕はアルバムを閉じて、その下にあった、さらに昔の写真を手に取る。小さな頃の写真が数枚。僕が生まれたばかりの頃、紫のワンピースを着た母に抱かれていた。1982年頃。写真の母は今の僕と丁度同じくらいの年齢だろうか。今まで気に止めていなかったこの写真になぜか惹かれて、僕は修学旅行のアルバムとともに、東京へ持ち帰ることにした。

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そのあと僕たちが見る夕焼けは、すべて「ゴールド・フィールド」になった。
-フェリックス・ゴンザレス=トレス「1990: L.A., The Gold Field」(ジュリー・オルト編『Felix Gonzalez-Torres』より、Steidldangin, 2006年)

2013年10月。島に帰った。家族はちょうどその時期ディズニーランドに行くというので、海辺のリゾートホテルに宿泊することにした。

実家から歩いて10分で行ける場所にあるのに、そういえば生まれて一度もリゾートホテルなどに泊まったことがないと気づいて、少し変な気持ちになる。旅行者のふりをしてチェックインしても、つい島のなまりが口を出る。部屋に入って、窓の向こうの青い海が目に入り、今まで知らなかったこの島の美しい風景を知る。海岸沿いにはたいてい防風林があり、島の人々が住む背の低い家々からこのように海をみることはほとんどできない。

ずっと昔アメリカ軍がこの浜辺に上陸して、収容所が作られた。それを想起させるようなものはもちろんない。奇麗な白い砂浜には残酷な記憶がどこか不釣り合いで、僕はその歴史を思う度に少し戸惑ってしまう。

昼寝をして、ビーチを散歩。台風が近づいていて風の強い砂浜は人影もまばらで、空にはあっという間に厚い雲が広がっていく。僕はついYの姿を探すけど現実はそう都合良くいくものではなくて、すぐに海にも飽き、部屋に戻った。夕方、一瞬雲が薄くなってレースカーテンの向こうで海が金色に染まる。ゴールド・フィールドだ、と僕は思う。島にいた時は決して見ることが出来なかった景色。よそ者になって初めて見ることが出来た風景。なんだか悲しかった。それでも、レースカーテンの向こうの景色は、美しかった。

アメリカ映画『The Teahouse of the August Moon』(邦題:八月十五夜の茶屋)は、1956年に公開された。映画の中で作られる八月十五夜の茶屋は、那覇の遊郭街・辻にあった料亭「松乃下」がモデルになっており、京マチ子演じる芸者のロータス・ブロッサムは、そこで働く芸者をモチーフにしたと言われている。映画の後半、ロータス・ブロッサムはアメリカ軍人、キャプテン・フィズビーに、私をアメリカに連れて行って、と言うけれど、彼はそれを優しく断り、静かにこう言う。

And on the other side of the world in the autumn of my life
When an August moon rises in the east
I’ll remember what was beautiful
and what I was wise enough to leave beautiful.

この世界の反対側で、僕の人生が秋色に変わるころ
東の空に、八月の月がのぼるでしょう
忘れないよ、その美しさ、
その美しさを、そのままに残し、去った僕の選択を
ダニエル・マン監督、『八月十五夜の茶屋』(MGM、1956年公開)

その言葉は、その場で二人の言葉の橋渡しをしていた沖縄人通訳サキニ(マーロン・ブランド)によって、ロータス・ブロッサムに伝えられる。サキニはその美しい言葉をなぜか完全に訳さずに、ただ、「忘れないよ」とロータス・ブロッサムに伝える。詩のような言葉は、「通訳という境界的存在」(新城郁夫『沖縄を聞く』より)であるサキニの心にとどめられることになる。ロータス・ブロッサムが去ったあと、男ふたり、サキニはフィズビーに言う、僕を代わりに連れてって。フィズビーは笑い、静かに首をふる、だめだよ、と。

このアメリカ映画の中で発せられたアメリカ人大尉の思慮深い言葉に、僕は驚いた。1956年、沖縄では何が起きていたのだろう。アメリカ人たちは、当時、全てを美しいままに残して、去ってゆこうと考えていたのだろうか。

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かつてのアウラを、ただひとつしかない芸術作品への宗教的畏怖を犠牲にしてしまったとしても、我々は機械的複製において何かをその代償に得ている。
リチャード・パワーズ(柴田元幸訳)『舞踏会へ向かう三人の農夫』(みすず書房、2000年)

『舞踏会へ向かう三人の農夫』において、一人の女性の手元で一枚の写真が長い年月を過ごすことで、いつしかそれは、彼女にとってかけがえのないものへと変わる。ヨーロッパからアメリカ大陸に渡る間、そして上陸後に持ち運ばれる間、四つ折りにされ、何度も広げられた写真のヨレやオリが、「ただひとつしかない芸術作品への宗教的畏怖を犠牲にし」た機械的複製に、唯一無二の神聖さを与えた。小説において、「私」がデトロイト美術館で見たザンダーの写真は、どれだけ歴史の重みが付加されても(もしかしたら歴史の重みが付加されたからこそ)「単なる」機械的複製でしかないのかもしれない。けれども、彼女がヨーロッパで偶然手に入れ、彼女の家に飾られていたザンダーの写真は、複製であるからこそとても親密に、カジュアルに扱われ、いつしか彼女だけのものとなった。祭壇に飾られた皺だらけの、かけがえのない一枚の写真。機械的複製は、機械的複製であるがゆえに、同一のイメージがまったく違う環境のもとで、芸術として鑑賞されたり、とてもささやかな宗教的畏怖を手に入れたりする可能性がある。

半世紀、ほぼ一生涯にわたって崇められてきたそのシンプルな肖像写真は、実のところ、想像という営みを通して以外、彼女と何ら本当のつながりはないのだ…(中略)…自分自身の必要に迫られた彼女は、写真の像が融通の効くものであることを利用して、彼らと自分とをつなぐ物語をまるごとひとつ捏造した。
(同上)

『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読み終えて以来、ザンダーの三人の農夫が僕の頭の中で動き出し、僕は僕なりの舞踏会へ向かう三人の農夫を想像し続けている。そこに、いくつもの物語が、未来がうまれる。写真は、過去であると同時に、当たり前のように未来を含んでいる。それは、過去と未来が集まり、僕たちの眼前に開かれる希有な空間、T・S・エリオットの言う「巡る世界の静止の点」そのもの。それらを語り、想像することで、僕たちは写真を自らのものとする。ザンダーの切り取った瞬間。被写体たちの、それまでとその後。パワーズの描いた、写真の過去、未来、現在。その他、幾つもの「たとえば」たち。ザンダーが写し取りながらもナチスに焼かれた、星の数程の過去、未来、現在、「たとえば」。その向こうで、僕の知らない、いくつもの未来が開かれてゆく。

たとえばそこで舞踏会が開かれて、農夫だった若い兵士たちが、誰かと永遠に踊っている。僕は、それを見ることはできないけれど。

廻る世界の静止の点に。肉体があるでもなく、ないでもなく、
出発点も方向もなく、その静止の点—そこにこそ舞踏がある、
だが、抑止も運動もない。それは固定とは言えない、そこで、
過去と未来が一つに収斂するのだ。出発点もなく方向もない運動、
上昇でも下降でもない。その一点が、その静止の点がもしなければ
舞踏等存在しないだろう。だが、現実には舞踏こそ唯一の存在。
T・S・エリオット(岩崎宗治訳)『四つの四重奏』(岩波文庫、2011年)




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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi