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横浜トリエンナーレで、ボードレールの映像が映し出すベイルートの風景を眺めながら、広島の夜のことを、そして、さらに遡ってアメリカの男友達のことを思い出していた。

夜の蕎麦屋。ふたりで瓶ビールをおかわりして、話題は『二十四時間の情事』やヌーヴェル・ヴァーグから、音楽へと移る。好きな音楽を言い合ったけれど何ひとつ一致するものはなかった。そんな中、ベイルートだけはふたりとも「良いかもしれない」と合意した。ビールにすっかり酔いながら、次のライブに行こうと約束する。家に帰って忘れないうちにライブ情報を調べチケットを二枚購入。夏のブルックリン、古くて巨大なレンガ造りの、すでにプールとしての機能は無くなったプールで行われた一度限りのライブ。その日は朝からずっと雨が降っていて、広すぎるプールの底には水たまりが広がっていた。来場者は特に気にする様子もなく、ビールを飲んだり水たまりに飛び込んだりして前座のバンドを聴いている。どこから持ち込まれたのかビニールのスライダーが設置され、若者たちは空のプールで楽しそうに水遊びを始める。水が跳ねてちょっと冷たかったけれどプールらしいな…と不思議な気持ちでそれを眺めながら、男友達を待ち続けた。いつの間にかに僕もすっかり水浸しになっていて、少し寒い。それでもライブが始まるころには空は晴れあがり、彼が遅れて現れる。枯れたプールでびしょぬれになった僕に少し不思議そうな顔をしている彼の向こうで、ザック・コンドンのウクレレが鳴り「Postcards from Italy」が始まった。

それからベイルートに夢中になったけど、彼はそこまでのめり込むことはなかったようだ。僕は東京に引っ越してきて、ベイルートも次第に聴かなくなり、あの夏のことも少しずつ忘れてゆく。それでも、その街の名前を聞くたびに、あのバンドのあの曲を、かつてのアメリカの男友達を思い出す。いずれ、そのような記憶の断片も忘れ去り、ひと括りになった「アメリカ」という記憶がぼんやりと残るだけなのかもしれない。

あの頃は
常に黄金の石ころを用意していた
彼らに投げつけるんだ
敗北を認めるのが遅すぎる彼らに
それが僕たちの青春 僕たちの青春
ベイルート(ザック・コンドン作詞)「Postcards from Italy」(『Gulag Orkester』, 2006年)


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2014年10月の終わり、トリエンナーレ会期が終わりに迫った日曜日の午後、横浜美術館を訪ねた。混んだ館内、『第3話:華氏451はいかに芸術にあらわれたか』と題された部屋へ。言論統制、検閲、イコノクラスム…そのような言葉を連想させる作品群の最後、場違いな程に長尺のエリック・ボードレールの映像作品『The Ugly One』が配置されていた。寂れたベイルートの町を背景に奇妙な「出会い直し」を繰り返す、かつて革命運動家であったらしい一組の恋人を描いた映像作品。死んだはずの二人は、ベイルートの町でなんども出会い直し、出会いの度に関係は破綻する。足立正生の脚本をもとにボードレールによって作り上げられたその映像は、20世紀後半、世界各地の活動家たちによる運動の歴史とその敗北を、反復して語りながら終焉へと向かう。100分にも及ぶその物語は、希望のようなものを僅かに残して終わった。しかし、革命に失敗し「出会い直し」を繰り返す男女によって語られるその希望はうつろでもあった。

作品の途中、「車爆弾が…」「車爆弾などなかった」とフランス語で交わされる男女の会話。それは、『二十四時間の情事』を僕に連想させた。その後に写し出された、細い柱が等間隔で並ぶ建築物とその側に建つアーチは、平和記念公園の風景のようにも見えてくる。建物内、廃墟のようにむき出しになった無数の鉄筋のショット。そして突如流れる日本の歌謡曲…そういえば『二十四時間の情事』でも美空ひばりの『それはナイショ』が変なタイミングで流れていた。歌が始まると同時に映像は切り替わり、夜のベイルートの風景を写し出す。歌う日本人歌手の映像が、老朽化して(もしくは紛争の歴史を経て)すっかり朽ちた建物の外壁に投影されている。それは、クシシュトフ・ヴォディチコが広島で行ったプロジェクション作品を、とても奇妙なかたちで変奏しているようにも見えた。

ふと思いつく。『二十四時間の情事』におけるヒロシマ=男と、ヌヴェール=女、そしてドイツ人将校=女のかつての恋人という三角関係に、イヴ・セジウィックが『男同士の絆』で下敷きにしていた、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」論(一人の女性を巡り男性二人が競うとき、女性を媒介して男性二人の結びつきが強まってゆく)を当てはめることは可能だろうか?ヒロシマの(1945年8月6日に広島にいなかった)男は、ヌヴェールの女を通してドイツ人男性将校を欲望していた…?そんなことないか…と考えながら、歌詞に耳を澄ませた。

ほてったホホにはもってこいの 凍てついたアスファルトのベッドがある
破れた旗をつくろう 銀の針はいらない
オレは暗闇で爪を研ぐのさ
ここはオレたちの戦場 ここは静かな最前線
横山リエ(足立正生作詞)『ウミツバメ』(若松孝二『天使の恍惚』より)

僕はまた、広島にいた8月の夜のことを思い出す。

8月6日、広島。サルセドの展示を観たあと、とうろう流しを観るために再び元安川に行った。夕暮れ、まだ日は完全に落ちてはいない。色とりどりの灯籠が、台風後の濁った川面を流れていた。暫く川沿いを散歩しているうちに空は暗くなり、とうろうはオレンジ色に光りはじめた。川沿いを、原爆ドームのほうへと歩く。元安橋のたもとに露店が出ていて、僕はそこでビールを買って川沿いの芝生に腰を下ろし、輝く川面ををしばらく眺めてみることにした。昼間の喧噪はなくなり、公園内は穏やかな空気に満ちていた。人々の顔には悲しみや怒りの色はなく、心地よい夜風と奇麗なとうろうの灯りを純粋に楽しんでいるように見えた。その控えめな祝祭感は、僕が沖縄で経験したことのなかった戦争への向き合い方であり、とても新鮮だった。こういう戦争の記憶との向き合い方もあるのだ、と。ビールを飲み干してからもずっと僕はそこに座り、流れ行くとうろうと、行き交う人々のとりとめのない会話の断片を聞いていた。

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広島市現代美術館を出る頃には、既に日も落ちかけていた。僕は、ふたたび平和記念公園に向かうことにした。夜に行われるという、とうろう流しを見てみたかったから。美術館のある比治山の頂上から、長い歩道を歩き、長いエスカレーターに乗って、ふもとへ。道なりに辿り着いたエレベーターを下りると大きなAEONがそびえ立っていて、現実に引き戻されながらデュラスの言う「膨大な数の死者とわたしが発明したたったひとつの愛の死を対峙させ」るということについて考えていた。連想したのは、ひめゆり部隊をモチーフにした今日マチ子の「cocoon」において、学徒隊として戦争に巻き込まれてゆくサンとマユの関係だった。沖縄戦らしき南の島で起こった戦争と、一組のティーンエイジャーの、恋、のようなもの。平時では説得力を持たないかもしれない、その関係性。そしてそこで繰り返し語られる、「繭」という囲いについて。

「わたしたちは想像の繭に守られている」
「誰もこの繭を壊すことはできない」
今日マチ子『cocoon』(秋田書店、2010年)
一つの関係の死をもって(マユについてのある秘密をサンが知ることによって)、ふたりを囲っていたこの繭もやがて壊れる。ふたりの関係は極めて戦争的に途切れ、サンはじきに「男の子」の恋人を見つける。幸せそうだけれど、それはマユとの関係を考えると少し残酷なことのようにも思える。淡い関係を守る繭は、壊れ、破れてしまう。そのメタファーは、ヘッセの小説を連想させた。その物語の背景にも、戦争があり、やがて壊れるべき「卵」があった。
鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。
ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『デミアン』(新潮社、1951年)
高校生の頃に読んだ『デミアン』における、エミール・シンクレールとマックス・デミアンの、極めてホモエロティックで濃密な関係。その、恋のような関係は、戦争の終わりと同時に終わりを迎える。そこで交わされたエミールとデミアンのキスは、当時の僕に少なからぬ衝撃を与えた。古典文学のなかで、男ふたりがキスをした!そして、小説世界を形作っていた卵は壊れる。
その頃僕は、生まれた小さな島を出て那覇の高校に進学し、基地が、アメリカがすぐ近くにあった(デュラスの言うような、「死が貯蔵」された)場所で、アメリカに憧れながら沖縄を出ることだけを渇望していた。もちろん、いつまでたっても、子供じみた焦がれを満たすような存在に出会うことも、卵が壊れるような体験も起こらなかったけれど。
はてしなく長いあいだ、彼は私の目をたえ間なく見ていた。徐々に彼は顔を私のほうに近づけたので、私たちはほとんど触れあうほどになった。
(中略)
私はすなおに目を閉じた。たえず血が少しずつこやみなく出て来るくちびるに軽いキスを感じた。
同上

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2014年8月6日、僕は初めて広島を訪ねた。広島空港は雨で、機内アナウンスは静かにその日が広島にとってどんな日であるかを伝えていた。十時ごろに平和記念公園に着いた頃にはすでに式典は終わっていたけれど、公園の周りはいまだ混沌としていた。さまざまな立場のひとびとがビラをまき、声を上げ、若いシンガーソングライターが声をからし、小学生の一群が整列して何か順番に宣言していた。それでも献花台に近づくにつれて喧噪は遠ざかり、ひとびとが一輪の花を手に、静かに並んでいた。業者が黙々と式典の片付け作業をしているそのあいだを抜けて、資料館を見上げる。その隣には、『二十四時間の情事』の中でエマニュエル・リヴァが泊まっていたホテルだった建物。僕は資料館に入り、様々な国々から訪れてきた多くのひとびとの流れに乗り、そして再び外へと出て、原爆ドームへと歩く。空は晴れていたけれど、川は前日まで続いていた嵐のために茶色く濁っていた。いまだ喧噪は収まりそうになかった。

原爆ドームを暫く見上げた後、僕は広島市現代美術館へと向かう。ヒロシマ賞を受賞した、ドリス・サルセドの展示を見るためだった。

地下にある広い展示室には、無数の、同じ形をした木の机が並んでいた。それぞれの机にはもう一つ同じ形の机が裏返しで重ねられ(ちょうど学校の掃除で僕たちがそうしてきたように)、しかし合わさった机の隙間にはずっしりと湿った土が挟まっている。何の説明を聞かずとも、それが棺桶を、死を意味しているのが判るような、明らかな鎮魂の陳列がそこにはあった。上に重なった机、木材の隙間からは、いくつもの草が伸びはじめている。そして僕はまた、あの言葉を思い出す。「砂からは、新しい植物が現れるのね……。」留まることを知らないように、その草は増殖を続けるのだろう。この展示が終わる頃には、どれだけの草が、これらの棺桶の上に生えているのだろう。そんなことを思いながら、僕は机に挿まれた土に鼻を近づける。湿った匂いはしたけれど、それ以外に、何も感じることはできなかった。

土という匿名でありふれた存在は、僕に彼の地で死んだ人々を想像させ、広島で死んだ人々を、そして僕がよく学んだ、沖縄で死んだ人々をも連想させる。こんなにも沢山の死を前に、何を行えばいいのだろう…。僕はまた、『二十四時間の情事』を思い出す。そして、デュラスの言葉を。彼女が知覚した、膨大な数の死、それに対して彼女がみつけた、唯一の方法を。

わたしは思い出す、一九四五年八月六日のことを。わたしと夫はアヌシー湖に近い収容所の家にいた。ヒロシマの原爆を報じる新聞の見出しを読んだ。急いでその施設から外に出た。道路に面した壁によりかかり、そのまま立ったままで気を失った。少しずつ、意識が戻ってきた。生を、道路を取り戻した。同じように、一九四五年、ドイツの強制収容所で死体の山が発見されていた。
(略)
それからわたしは生涯、戦争については書いたことはない。あれらの瞬間についても、けっしてね。ただ、強制収容所についての数ページがあるだけ。それと同じだけど、ヒロシマって依頼されたのでなかったら、けっしてヒロシマについて書くことはなかったはずね。でも、ほら、書くことになると、わたしはヒロシマの膨大な数の死者とわたしが発明したたったひとつの愛の死を対峙させた。
マルグリット・デュラス(小林康夫訳)『緑の眼』(河出書房新社、1998年)

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2014年。8月のはじめ頃、数年ぶりに『二十四時間の情事』を観た。ヌヴェールとヒロシマ、そうお互いを呼び合う、つかの間の恋人ふたり、その肌。写し出される、広島の風景、建物、ひとびと、空、土…。そして画面が切り替わり、舗装されていない広島の土の上に投げ捨てられ、半分つぶれたPeaceの箱を写しただけのシーンが数秒続く。はっとする。

『Crumpled Peace』(2013)を作った時には、このシーンのことなどすっかり忘れていた。初めて『二十四時間の情事』を観たときにも、それほどこのシーンを気に留めていなかったはずだけれど、どうやらこの映画は深く僕に影響を与えていたのかもしれない。アメリカ人デザイナーによる、ノアの箱船伝説をモチーフにしたこのパッケージは、今でもほとんど同じデザインで買うことが出来る。戦後間もない時期、人々は、きっと、今よりずっと平和についての思いを、このパッケージに込めていたのかもしれない。国産煙草が生産されはじめて、その初期に作られたPeace(そしてHOPE)。それらを現在見ても、当初の理念を考えることはほぼない。それらはただの煙草でしかないから。

しばらく静止画のようにPeaceが写し出された後に、画面は切り替わってしまう。僕は混乱する。1959年に公開された『二十四時間の情事』で、広島の土の上に打ち捨てられたPeaceは、どのような意味を持つのだろう。それは、平和なのか、只の煙草なのか…映画の土台となったシナリオと会話を収録したデュラスの『ヒロシマ私の恋人』のページをめくり、その箇所をさがしてみる。

砂。シガレットの《ピース》の一箱。砂の上に蜘蛛のように横に広がった葉の厚い植物。
彼女 — 砂からは、新しい植物が現れるのね……。
マルグリット・デュラス(清岡卓行訳)『ヒロシマ私の恋人』(筑摩書房、1990年)

彼は彼女に何度も言う。君はヒロシマを見ていない、と。彼女は、見た、と言う。何度目かのやり取りの後、彼はさらりと告白する。あのとき、広島に?いないよ、もちろん。彼女がヒロシマと呼ぶ男は、ヒロシマを見ていなかった。それなのにも関わらず、彼はヒロシマとして彼女に対峙し、重なる。彼は、ヒロシマでありヒロシマでない。二人の間には、二人の見なかった、膨大な数の死があり、ヒロシマが横たわっている。その、死を覚えているであろう土の上に打ち捨てられた、Peaceの箱。そこにも、植物が生まれてくる。

恐怖によって恐怖を描写するということは、日本人たち自身によって行われていることなので、そういったことはやめてしまい、そのかわり、その恐怖を、ひとつの恋愛、それも不可避的に異常で、《感嘆させる》ものとなるだろうひとつの恋愛のうちに刻みこませることによって、それをその灰の中から蘇らせることこそ、この映画の重大な意図の一つとなるのである。そのとき、観客はその恋愛を、もしそれが世界のほかのどこでもいいが、死が貯蔵されていないどこかの場所で生じたかもしれない場合よりは、ずっとよく信じるだろう。
同上


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2000年代なかば、まだニューヨークに留学していた頃。待ち合わせ場所にしていたユニオンスクエアで、男友達が来るのを待っていた。数日前彼に勧められ、その日の午後観た『二十四時間の情事』のことを思い出しながら。夏の夕暮れ、ふと気づくと、うす暗い公園の歩道に若い女性がチョークで何かを書いている。僕の足元で最後の「A」を書き終えた女性は、何も言わずに立ち去って行った。書かれていた言葉は、「REMEMBER HIROSHIMA」。

広島についての映画を観た後に、なんという偶然…そう思いながら僕は、その文字を人々の靴が少しずつ踏み消してゆくさまを見ていた。しばらくしてから、その日が8月6日であることに思い当たった。僕は広島のことをすっかり忘れながら、その日に『二十四時間の情事』を観て、そして「REMEMBER HIROSHIMA」の言葉を眺めていた。それらが頭のなかで結びつかない程に、遠い場所に来てしまったようだった。やがて男友達がやってきて、夕食に適当な店を探す。今日、『二十四時間の情事』を見たよ。そしたらさっき、ユニオンスクエアで女の子が「REMEMBER HIROSHIMA」って書いていた!そう言ったけど、男は、はあ、と返しただけで、イーストヴィレッジで見つけた蕎麦屋の看板やメニューを眺めていた。彼の中では、何も結びついていないようだった。僕たちは、その蕎麦屋に入った。

広島について、考えたことはある?アメリカ生まれの彼にそう聞いてみた。ひどいことだ、彼は言った。ひどいことだ?その言葉に少しひっかかりながらも、僕たちはオーダーを始めた。ざるそばと、にしんそばを。あと、ビール。他の土地で起きた戦争について考えることは、とても困難なことのようだった。サッポロの瓶ビールを、ちいさなグラス二つに注ぐ。なぜ、あの映画の舞台は、広島だったんだろう?僕は素朴な疑問を彼に訪ねた。デュラスがそれについて何か興味深いことを書いていた気がするけど、何だったかな…男は思い出そうと、グラスを持ち上げたまま中空を見つめた。フランスで終戦を迎えた彼女は、広島と長崎のことを知ったとき、あまりの衝撃に気を失ったそうだ。そして、ナチスの収容所で死んでしまった膨大な数のひとびとのことを…それきり彼女は戦争について語ってこなかった。なのに、なぜ広島を?にしんを箸でほぐしながら、僕は聞き、彼がつゆをそばにかけようとしたのであわてて止めた。質問に彼は、さあ、とだけ答えて、薬味の載った皿を持ち上げて見つめている。僕は、彼の手をお盆に戻されたつゆの上に誘導しながら、「喫茶どーむ」で瓶ビールを分け合う二人の恋人たちのシーンを思い出していた。よりそう二つの、まったく違う場所で起こった戦争の記憶。そのつかの間の連帯に、何の意味があるのか。僕は彼がそばを食べはじめたのに安心して、瓶ビールをもう一本頼んだ。あの、川沿いの喫茶店でのシーンで流れていた音楽が、忘れられないんだ。僕は言った。

「喫茶どーむ」での音楽を作曲したジョルジュ・ドルリューにとって、『二十四時間の情事』が彼の映画音楽デビューで、その後はトリュフォーの映画の音楽を多く手がけた。そばを食べ終え、ビールを飲みながら男が言った。『アメリカの夜』も?僕は聞いた。そう、『アメリカの夜』も。あの映画のオープニングが大好きだった。男も、あの映画がトリュフォー映画の中で一番好きだ、と言った。映画史に残る最良のオープニングシーンだね。完璧だった。男が小さなグラスを傾けて大げさにしみじみと呟き、それからふたりで映画に乾杯して、すっかり広島のことは忘れてしまう。

帰り道、ユニオンスクエアの駅に下りる前に、先ほどのチョークの文字列を探したけれど、踏みつける足たちによって奇麗に消されてしまっていた。そんな言葉、もともとなかったかもね、と男が言った。

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7月末。京都での個展が終わり撤収を済ませた僕は、時間があったのである場所を探しに行くことにした。京都駅を出て、京都タワーを前に塩小路通を東へと進む。ビルの立ち並ぶ賑やかな駅前からすぐに風景は開け、古ぼけた市営住宅を横目に、夏の日差しを遮るもののない歩道を歩く。黒川創による短編小説『旧柳原町ドンツキ前』の、ドンツキ=行き止まりを探す。ここだろうか、と見当をつけた交差点を南に折れる。目の前を線路が何本も走り、その下をくぐるように車道が通る。車道脇にじぐざぐに折れ曲がり下る歩道があって、向こう側に渡ることが出来るようだった。しかしその先には行き止まりらしい場所はなく、八条通の向こうへと河原町通は続く。そこで初めて、今しがた歩いてきた線路手前の場所がドンツキだったのだと気づいた。

来た道を引き返し、改めてそこに広がる風景を見る。奇麗に整備された、けれども寂しげな広場があって、ベンチに座る年老いた夫婦らしい男女が静かに語り合っていた。線路と広場の下を走る河原町通は広場の先でふたたび地上に出て、北へと進む。広場を歩いてみる。西側には市営住宅。シャッターが下りた一階の店舗の前にはプランターや植木鉢が並ぶ。東側の塀と木々に囲まれた敷地からは子供の手を引く女性がぽつりぽつりと出て来る。保育園があるらしい。その門の前まで来て、保育園に隣接するように立つ若草色の奇麗な洋館を見つけた。旧柳原銀行だった。その銀行については、『旧柳原町ドンツキ前』でも触れられていた。

被差別地区の住民が、自分たちの手で地元に創設した、日本でただ一つの銀行だった。
黒川創『旧柳原町ドンツキ前』(新潮2014年7月号より)

小説によれば、僕が立つ広場から見て左手にあったはずの銀行は、道路拡張工事に際し、そこから道を挟んだ反対側に移設され、今も残っていた。

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『旧柳原町ドンツキ前』の物語は、1994年、印刷会社に勤める主人公西口健志が、「古地図で歩く京都」というムック本を手がける出版社に呼ばれ、江戸時代の古地図にあった「非人小屋」という表記をフォトショップで消して欲しいという依頼を受けるところから始まる。30歳を少し過ぎた健志がかつて少年・青年時代のある期間を過ごした場所は、その非人小屋があった場所と重なっていた。健志が十代だった頃、まだ京都には市電が走っていて、河原町通を南下してきた市電は塩小路通のドンツキ前(正面には「ドンツキ靴鞄店」という大きな看板を掲げた店があった)で急なカーブを描いて西に進路を変え、終着駅である京都駅へと向かう。市電が走っていた頃は、この界隈も靴屋や革製品のお店が並び賑わいを見せていた。それよりもずっと昔、そこは六条村と呼ばれていた。

六条村は、皮革業と、犯罪人の処刑や捜索にあたる警刑使役を主な生業としてきた村だった。この身分を秀吉の政権は「皮多(かわた)」と呼んでいたが、江戸時代なかばごろには京でも「穢多(えた)」と呼ぶことが多くなる。
(同上)

僕がその交差点を訪ねた時には、市電の面影も、「ドンツキ靴鞄店」の看板もなかった。柳原銀行も移設されていた。大きな道路をひっきりなしに車が走り、新幹線と交差するようにトンネル下を抜けてゆく。通り沿いに靴屋や革製品の店はちらほら見かけたけれど、閉まっている店も多い。

地図の表記を消す…土地の記憶を消す。出版されたあとには知る由もない小さな行為で、歴史が塗り替えられて行く。あくまでもフィクションではあるけれど、とても穏やかな語りの中で、そのようなことが行われている。読んでる方も読み流してしまうほどに、淡々と。健志はそのことに違和感を覚えながらも、特に声高に反対することもなく、かつて少年時代を過ごしたその地域のことを回想する。家族ぐるみで交流のあった、柳原銀行のはす向かいの中野履物店を切り盛りする夫婦、彼らが所有していた近所の空き家を下宿に改装するための手伝いに来た、キリストみたいな(中野のおじさんがいうには「ヨセフ」)ヒッピーの若者。京都駅のひとつ手前、市電塩小路高倉駅で健志を下ろし、そのまま東京へと去って行った母親。父親との二人暮らし。大学に進学し、キリスト/ヨセフが改装した下宿に住みだした健志。同じ頃下宿に住んでいた、セックスの最中に相手に暴力を振るう癖のあるアキラ。時々アキラの様子を見にくる姉の美雪…。そして、一泊の小旅行で向かった宮津、そこで早朝に目撃した精霊舟の舟出。

小説のなかの「現在」では健志は50代になっていて、「非人小屋」も消え、市電も消え、ドンツキも消えた。現実においても、それは同じだった。僕には、それらの記憶を感じとることができない。東京に帰ってきて改めて読み返した、京都を舞台にしたこの短編小説は、下記のような言葉で始まっていた。

「ない」という言葉の過去形は「あった」という言葉である、と言う人がいた。「ない」と言うのは、かつてそこに何かが「あった」ことを知る者だけである。反対に、「あった」と明言することは、いまはもう「ない」のだ、という事実を示すだろう。
(同上)

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残念ながら、文化的左派に立つ私たちは、与えられた役割を果たすのに必要以上に熱心だ。私たちが議論に招かれたところで、それは議論とは名ばかりの茶番。本質から目をそらさせるための存在として、その場所に私たちは立たされている。そこで、合衆国憲法修正第1条やいわゆる言論の自由で反論すべきではない。サーカスの視線を、私たち独自の方法論をもって、彼らが触れようとしない本質に向けさせ、それを暴露するべきだ。私たちは、憎しみや無知の流布や恐怖と戦わないといけない。歴史と事実を有効に使いながら。私たちが点と点を結ぶことを、体制側は何よりも嫌がる。
フェリックス・ゴンザレス=トレス「1990:L.A. The Gold Field」より

6月30日、夕方、永田町の駅を出て坂道を下る。向こうから、中学生たちが談笑しながら坂道をすれ違い、駅の方へと上っていた。夕暮れの薄やみのなか、何だか楽しそうに見えたけど、そう見えるように頑張ってるだけかもしれない。坂道を下りた先、警察官がちらほら見え始めた道を挟んだ反対側にいたひとりの男子が、Yの名前を叫びながらこちらに向かって手を振って、僕は顔を上げる。すぐに、後ろにいた男の子が、じゃあね!と声をあげた。シュプレヒコールと太鼓の音が聞こえはじめたけど、僕は警察官に封鎖された道路を迂回するように進んでいたために、音は近づいてはまた遠のいてゆく。東京に、その中心に、いくつもの隔たりが生まれている。やっと首相官邸近くに着いたと思ったら、あっという間に人波にもまれて身動きが取れなくなった。どうにか開けた場所を見つけ出す。熱気に気圧されて、その日は端のほうでじっとしていた。圧倒されながら、そこに入り込めない妙な心持ちを覚えた。次の日(今日)は22時ごろに行って、記者会館の駐車場からぼんやりとデモの様子を見ていた。やはり複雑な気分だった。特に、今日は。朝、辺野古の基地建設予定地で移設作業が始まったと知った。その事実が、僕をとても暗い気持ちにすると同時に、前日に感じた複雑な気持ちの原因がわかる。いつだって、沖縄のことを、つい考えてしまうからなのだ。ある思いが共有されて、真摯な声となってうねりを生むなかでひとり、辺野古に基地が作られなければいいのに、と子供じみたことしか考えられない自分に戸惑ってしまう。

今日、7月1日に起きたこと、すべてが繋がっているというのなら、これまでにも沖縄では取り返しのつかないことが何度も起きてきたはず。東京は、東京にいた僕は、その時々、何をしていただろう。もしこの二日間官邸前にいた人々が、僕が、沖縄がこれまで面してきた幾多の困難に際しきちんと行動を起こし続けていたら、もしかしたら何か変わっていたのだろうか。デモの端にいて、そんな考えをずっと拭えずにいた。同じ国であるとされる場所で起きたことなのに。東京に住んでいると沖縄のできごとが遠い国のことのように思えることがあって、僕も、南の島で起こっていることを見落としがちになってしまう。でも、まかれた点と点とを拾いあげて結び、本質を見定めなければいけない。

2008年、辺野古のビーチに行った時は、怖くてフェンスに近づけなかった。写真作品「What Lies」に写されたフェンスは、今はもうない。フェンスが取り払われたわけではもちろんなくて、今はもっと高くて威圧的な、コンクリートの土台を持ったフェンスが立っている。隔たりと言うにはあまりにも無機質で不気味な壁。辺野古での基地移設作業が始まった今日の朝、山之口貘の「沖縄よどこへ行く」を読み返した。1951年、日本復帰のずっと前に作られたその詩において、「日本に帰って来ることなのだ」と貘は言う。戦中・戦後を東京で過ごした彼の記憶にあった南のふるさとは、いつの間にか外国になっていた。日本への不信感を抱きながらも、日本に帰っておいでと言っている。その最後の一行を、何度も読み返す。

(前略)
おかげでぼくみたいなものまでも
生活の隅々まで日本語になり
めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり怒ったりするにも
人生のすべてを日本語で生きて来たのだが
戦争なんてつまらぬことを
日本の国はしたものだ

それにしても
蛇皮線の島
泡盛の島
沖縄よ
傷はひどく深いときいているのだが
元気になって帰って来ることだ
蛇皮線を忘れずに
泡盛を忘れずに
日本語の
日本に帰って来ることなのだ

山之口貘「沖縄よどこへ行く」より(『沖縄文学選』、勉誠出版、2003年)

結局沖縄は日本に帰ることはなかったのかもしれない。これから先、おかえり、と言える場所に東京は、日本はなるのだろうか。沖縄が、ただいま、と返す日は来るのだろうか。今は、どうしてもそれが想像できない。




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