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2015年秋、『ロマン派の音楽』のためのインタビューと撮影をサンフランシスコで終えた僕は、数日ロサンゼルスに行くことにした。予定は特に立てておらず、直前になってLAの近くに日系アメリカ人の収容所跡地があったはずだと思いあたる。LAを案内してくれる予定の友人に聞くと、車で片道3、4時間ほど。近郊ではない…けれど、連れて行ってもらえることになった。LAを出て、少しずつ岩や砂の色が変わってゆく砂漠の中を車は走り続ける。

次第に周りを取り囲む山々が高くなり、ローン・パインという小さな町を抜けた先に平野が広がっていた。そこが、かつて収容所があったマンザナー国定史跡だった。

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資料館を兼ねたビジターセンター、復元されたバラックと見張り塔、ホイットニー山の麓に佇む慰霊塔(建立は1943年)、そして同じく復元された収容所フェンスのほかは、木々や茂みに覆われた広大な荒野が広がっていた。しかし、そこかしこにかつての暮らしの痕跡が見えた。コンクリートの土台、錆びて折れ曲がった釘、水の枯れた日本庭園跡地。ここに、一万人を超える人々が強制的に収容されていた。広大な平野とはいえ、フェンスに囲まれた敷地内だとかなりの密度になるはず…ちょうど自分が生まれた島の人口が一万人だったので、想像してみる。狭い。事実、環境は劣悪だったことをビジターセンターの資料で知る。仕切りのないトイレ、隙間風の入り込む住居、絶えず入り込んでくる砂塵。一世とそれ以降の世代の収容者の世代間の断絶や人間関係のトラブルもあったかもしれない。

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この場所を訪ねた理由のひとつに、アメリカが特定の自国民を差別・弾圧した負の歴史にどのように向き合っているのか見てみたい、ということがあった。見たところ愛国主義的な空気は薄く、過去の過ちに向き合っているように見える。ビジターセンターでは、かつて収容されていた日系人の方がガイドもしていた。耳を傾けるべきだったけれど僕は上の空だった。フェンスが復元されたものであるということが、僕の中でずっと引っかかっていた。でもその理由をうまく言語化できない。一度撤去されて、もう一度設置された。この場所の記憶を閉じ込めておくように?そうではないような気もする。

ひとびとが住んでいた場所から追放され、俗悪な環境への移動を強要する。日本におけるそのような歴史はなんだろうと考え、近代の多くのことがらを飛び越えて、僕はなぜかキリシタン弾圧のことを思い浮かべた。数百年前の日本で行われたその弾圧について、ほとんど何も知らない。

帰ったら色々と調べてみよう、と思いながらだだっ広い収容所跡地を歩いていると、傾いた太陽のを受けて光るものが地面に点在していた。目を凝らすとそれは、70年近くが経過した今も角が取れていない尖ったガラス片だった。水辺ではないのでそれは当たり前なのかもしれないけれど、錆びてしまった釘やコンクリートの塊よりも、透明なガラス片はかつての日系アメリカ人たちの暮らしを強く想起させた。ここには、暮らしがあったのだ。その記憶を忘れないように、と静かに輝くガラスが亡霊のように哀しく揺らめいているように思えた。そのうちにそれらのガラス片も、風に転がってフェンスの外に消えていくのかもしれない。

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