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起きたかもしれないできごとの集まり、それが歴史と言うもの。僕たちは物語の欠片を取捨選択してモンタージュとして仕上げ、自分が誰なのかについての物語を再生する。僕は歴史が偽りに満ちているところに惹かれる。物語が、それぞれ一人歩きしてゆくことも。そうした流れのなかで、真実はゆらぎ、とりとめのない事になってゆく。
キルスティ・ベル、T.J.ウィルコックスインタビュー「Sunrise to Senset」(Frieze #157, 2013年9月)

2013年10月。20年ぶりに見るひめゆりの塔は、大きな声で騒ぐ修学旅行生たちに囲まれていて賑やかだった。これはこれで、いいのかな、と思いながら、平和祈念館の中を復習するようにまわる。僕自身は、戦後については(それがいつを指すのかという問題はあるけど)ある程度想像できるし、体験しているとも言える。けれど、戦争を想像することはとても困難だった。僕が今まで戦争を一番近く感じたのは小学四年生の頃、湾岸戦争が始まったとき。僕は那覇に住んでいて、その頃確か母親は大きな病気で入院していた。沖縄はとても緊迫した空気に包まれていて、それは子供の僕にも感じることができた。ひとりで、こっそり怖がっていたことを今も覚えている。

戦争体験者の語りを聞くたび、その人たちと僕との間に存在する断絶に戸惑う。体験者が語る戦争とは二度と起きてはならないこと。でも、戦争を知らない世代が戦争を語るとき、それが克服すべきものに聞こえてしまうのはなぜだろうとずっと考えていた。そう読み取ってしまいがちな僕の想像力の限界(もしくは物語の限界)なのかもしれないけれど。そういうこともあり、ずっと、戦争を語る資格なんてないと思っていて、戦後はモチーフに出来ても、戦争を取り扱うことについての迷いがあった。そんな時に読んだ本のなかで、長崎で原爆投下を体験した林京子がインタビューでこう語っていた。

しかし、わたくし自身は限度があると思います。自分が被爆者ですから。いちばん大事にしていることは、事実を歪めてはいけない、ということです。膨らませてもいけない。でも、実際には相当に大きく構え、もっと感情を交えて書かないと、本当の意味での「被爆」は書けないのではないかとも思っています。もっとナマの感情をぶつけていくような小説もあるのではないか……。(中略)ぜひ、外から見て、自由に書いて欲しい。たとえば被爆者の批判でもいいんです。ああいう生き方はおかしい、と書いてくださってもいいと、わたくしは思います。どんな形でも新しい書き手がどんどん出てくることが大切で、それが伝えていく、忘れないということなんだと思うんです。
陣野俊史『戦争へ、文学へ』(集英社、2011年)

真実のありかなんて、僕にはわからない。ウェブの世界で物語が書き換えられるなか、忘れないだけでは駄目だということも知っている。TJウィルコックスの言うような、取捨の選択肢を出来る限り多様にするしかないのかもしれない。

資料館、出口の脇にある部屋で、戦後のひめゆりの女性たちによる記念館設立までを巡るパネル展示があって、そこは修学旅行生たちのコースからは外れているのか、人もまばらだった。1950年ごろ、いまよりずっとささやかなひめゆりの塔が建造され、その前で集まった彼女たちは20代なかばだろうか、その中のひとりの腕のなかに、赤ちゃんがいた。僕は、僕と同い年の頃に僕を抱きながらカメラに向かう母親の写真を思い出した。




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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi