『花の名前』(2015)は、欧州神話の時代から現代沖縄まで繰り返されるいくつもの愛と暴力の物語、その循環にまつわる作品になった。最後のシーンとなるドラッグクイーンの撮影を北谷で終え、深夜、窓の外で静止する光の消えた観覧車を眺めていた。かつて軍用地だったところが返還されて、アメリカンビレッジとなった。観覧車は、その地区のシンボルだ。撮影を行ったホテルを挟んで反対側には、今も米軍施設が広がり、ホテルのベランダからはその両方の「アメリカ」が見える。ぼんやりと観覧車を見ていると、ジョニ・ミッチェルの「Both Sides Now」が脳裏に浮かぶ。「でも今となっては太陽を遮り/すべてのものに、雨が、雪が降り/たくさんの夢があった/でも、雲がそれらを遮ってしまった」という箇所が、フローラの物語と重なった。「月、六月、そして観覧車が巡る」…目の前の風景とシンクロする。

ドラッグクイーンが「クロリスに」を歌うシーンは美しかったけれど、ループ構造をもつ『花の名前』においてそれはフローラの物語に直結し、そのきらめきも負の循環に飲まれてしまう。この循環を抜け出せないだろうか。例えば沖縄の人間に、「Both Sides Now」を歌ってもらってはどうだろうか、と僕は思いつく。「自分は結局まだ何も知らない」と歌うそれは、僕にとって絶望といくばくかの希望が同居する曲だった。それまで沖縄の男性をきちんと映像に収めたことがなかったこともあり、沖縄人男性に歌ってもらうことにした。それによって僕と沖縄との関係がまた変化してゆくかもしれない。『花の名前』と同じように、歌い手の性別をオリジナルと変化させたかったという意図もあった。

撮影した映像のなかで「Both Sides Now」を演奏する男性は、2016年の2月に沖縄で開催した『オーシャン・ビュー・リゾート』・『ロマン派の音楽』上映会とその後のトークに参加したひとりだ。共通の知人が、演奏者候補としてどうかと連れてきてくれた。トークの最後に彼が『オーシャン・ビュー・リゾート』のレースカーテンについての質問をしたことを覚えている。「Y」が「僕」の言葉を遮ったように、カーテンもまた遮るものとして存在しているのか、というようなことを聞かれた。僕はそれがある種の境界であり、前半の沖縄人男性とアメリカ兵を隔てていたフェンスを模倣しながらも、まるで違う境界として立ち現れていると答えになっているかわからないような答えかたをした。一度しか見ていないはずなのに、彼は細かいカット割についての言及を交えて、境界にまつわるいくつかのことを聞いてきた。

撮影を引き受けてくれることになり何度か話している中で、撮影にはランプとレースカーテンが必要だと彼が言う。そのふたつは、『オーシャン・ビュー・リゾート』の重要な要素で、なぜランプにまで着目するのだろうと僕は少し驚く。あまり自分では言及することがない要素だった。American Boyfriendの世界に入り込んできた新たな登場人物のように、彼が存在しはじめていた。

初日の撮影では、ギターだけで「Both Sides Now」を弾いてほしいと頼む。スワンとオデットの物語に沿う形で、伴奏だけでメロディーが奏でられてもいいのかもしれない、と思っていたから。そして、もうひとり、歌い手の存在を浮かび上がらせることができるかもしれないから。歌もあったほうがいいのではと彼が言い、両方のバージョンを何回か撮ってその日の撮影は終わった。




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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi