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I once had an American boyfriend 4

広島市現代美術館を出る頃には、既に日も落ちかけていた。僕は、ふたたび平和記念公園に向かうことにした。夜に行われるという、とうろう流しを見てみたかったから。美術館のある比治山の頂上から、長い歩道を歩き、長いエスカレーターに乗って、ふもとへ。道なりに辿り着いたエレベーターを下りると大きなAEONがそびえ立っていて、現実に引き戻されながらデュラスの言う「膨大な数の死者とわたしが発明したたったひとつの愛の死を対峙させ」るということについて考えていた。連想したのは、ひめゆり部隊をモチーフにした今日マチ子の「cocoon」において、学徒隊として戦争に巻き込まれてゆくサンとマユの関係だった。沖縄戦らしき南の島で起こった戦争と、一組のティーンエイジャーの、恋、のようなもの。平時では説得力を持たないかもしれない、その関係性。そしてそこで繰り返し語られる、「繭」という囲いについて。

「わたしたちは想像の繭に守られている」
「誰もこの繭を壊すことはできない」
今日マチ子『cocoon』(秋田書店、2010年)
一つの関係の死をもって(マユについてのある秘密をサンが知ることによって)、ふたりを囲っていたこの繭もやがて壊れる。ふたりの関係は極めて戦争的に途切れ、サンはじきに「男の子」の恋人を見つける。幸せそうだけれど、それはマユとの関係を考えると少し残酷なことのようにも思える。淡い関係を守る繭は、壊れ、破れてしまう。そのメタファーは、ヘッセの小説を連想させた。その物語の背景にも、戦争があり、やがて壊れるべき「卵」があった。
鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。
ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)『デミアン』(新潮社、1951年)
高校生の頃に読んだ『デミアン』における、エミール・シンクレールとマックス・デミアンの、極めてホモエロティックで濃密な関係。その、恋のような関係は、戦争の終わりと同時に終わりを迎える。そこで交わされたエミールとデミアンのキスは、当時の僕に少なからぬ衝撃を与えた。古典文学のなかで、男ふたりがキスをした!そして、小説世界を形作っていた卵は壊れる。
その頃僕は、生まれた小さな島を出て那覇の高校に進学し、基地が、アメリカがすぐ近くにあった(デュラスの言うような、「死が貯蔵」された)場所で、アメリカに憧れながら沖縄を出ることだけを渇望していた。もちろん、いつまでたっても、子供じみた焦がれを満たすような存在に出会うことも、卵が壊れるような体験も起こらなかったけれど。
はてしなく長いあいだ、彼は私の目をたえ間なく見ていた。徐々に彼は顔を私のほうに近づけたので、私たちはほとんど触れあうほどになった。
(中略)
私はすなおに目を閉じた。たえず血が少しずつこやみなく出て来るくちびるに軽いキスを感じた。
同上



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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi