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I once had an American boyfriend 3

2014年8月6日、僕は初めて広島を訪ねた。広島空港は雨で、機内アナウンスは静かにその日が広島にとってどんな日であるかを伝えていた。十時ごろに平和記念公園に着いた頃にはすでに式典は終わっていたけれど、公園の周りはいまだ混沌としていた。さまざまな立場のひとびとがビラをまき、声を上げ、若いシンガーソングライターが声をからし、小学生の一群が整列して何か順番に宣言していた。それでも献花台に近づくにつれて喧噪は遠ざかり、ひとびとが一輪の花を手に、静かに並んでいた。業者が黙々と式典の片付け作業をしているそのあいだを抜けて、資料館を見上げる。その隣には、『二十四時間の情事』の中でエマニュエル・リヴァが泊まっていたホテルだった建物。僕は資料館に入り、様々な国々から訪れてきた多くのひとびとの流れに乗り、そして再び外へと出て、原爆ドームへと歩く。空は晴れていたけれど、川は前日まで続いていた嵐のために茶色く濁っていた。いまだ喧噪は収まりそうになかった。

原爆ドームを暫く見上げた後、僕は広島市現代美術館へと向かう。ヒロシマ賞を受賞した、ドリス・サルセドの展示を見るためだった。

地下にある広い展示室には、無数の、同じ形をした木の机が並んでいた。それぞれの机にはもう一つ同じ形の机が裏返しで重ねられ(ちょうど学校の掃除で僕たちがそうしてきたように)、しかし合わさった机の隙間にはずっしりと湿った土が挟まっている。何の説明を聞かずとも、それが棺桶を、死を意味しているのが判るような、明らかな鎮魂の陳列がそこにはあった。上に重なった机、木材の隙間からは、いくつもの草が伸びはじめている。そして僕はまた、あの言葉を思い出す。「砂からは、新しい植物が現れるのね……。」留まることを知らないように、その草は増殖を続けるのだろう。この展示が終わる頃には、どれだけの草が、これらの棺桶の上に生えているのだろう。そんなことを思いながら、僕は机に挿まれた土に鼻を近づける。湿った匂いはしたけれど、それ以外に、何も感じることはできなかった。

土という匿名でありふれた存在は、僕に彼の地で死んだ人々を想像させ、広島で死んだ人々を、そして僕がよく学んだ、沖縄で死んだ人々をも連想させる。こんなにも沢山の死を前に、何を行えばいいのだろう…。僕はまた、『二十四時間の情事』を思い出す。そして、デュラスの言葉を。彼女が知覚した、膨大な数の死、それに対して彼女がみつけた、唯一の方法を。

わたしは思い出す、一九四五年八月六日のことを。わたしと夫はアヌシー湖に近い収容所の家にいた。ヒロシマの原爆を報じる新聞の見出しを読んだ。急いでその施設から外に出た。道路に面した壁によりかかり、そのまま立ったままで気を失った。少しずつ、意識が戻ってきた。生を、道路を取り戻した。同じように、一九四五年、ドイツの強制収容所で死体の山が発見されていた。
(略)
それからわたしは生涯、戦争については書いたことはない。あれらの瞬間についても、けっしてね。ただ、強制収容所についての数ページがあるだけ。それと同じだけど、ヒロシマって依頼されたのでなかったら、けっしてヒロシマについて書くことはなかったはずね。でも、ほら、書くことになると、わたしはヒロシマの膨大な数の死者とわたしが発明したたったひとつの愛の死を対峙させた。
マルグリット・デュラス(小林康夫訳)『緑の眼』(河出書房新社、1998年)




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