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I once had an American boyfriend 2

2014年。8月のはじめ頃、数年ぶりに『二十四時間の情事』を観た。ヌヴェールとヒロシマ、そうお互いを呼び合う、つかの間の恋人ふたり、その肌。写し出される、広島の風景、建物、ひとびと、空、土…。そして画面が切り替わり、舗装されていない広島の土の上に投げ捨てられ、半分つぶれたPeaceの箱を写しただけのシーンが数秒続く。はっとする。

『Crumpled Peace』(2013)を作った時には、このシーンのことなどすっかり忘れていた。初めて『二十四時間の情事』を観たときにも、それほどこのシーンを気に留めていなかったはずだけれど、どうやらこの映画は深く僕に影響を与えていたのかもしれない。アメリカ人デザイナーによる、ノアの箱船伝説をモチーフにしたこのパッケージは、今でもほとんど同じデザインで買うことが出来る。戦後間もない時期、人々は、きっと、今よりずっと平和についての思いを、このパッケージに込めていたのかもしれない。国産煙草が生産されはじめて、その初期に作られたPeace(そしてHOPE)。それらを現在見ても、当初の理念を考えることはほぼない。それらはただの煙草でしかないから。

しばらく静止画のようにPeaceが写し出された後に、画面は切り替わってしまう。僕は混乱する。1959年に公開された『二十四時間の情事』で、広島の土の上に打ち捨てられたPeaceは、どのような意味を持つのだろう。それは、平和なのか、只の煙草なのか…映画の土台となったシナリオと会話を収録したデュラスの『ヒロシマ私の恋人』のページをめくり、その箇所をさがしてみる。

砂。シガレットの《ピース》の一箱。砂の上に蜘蛛のように横に広がった葉の厚い植物。
彼女 — 砂からは、新しい植物が現れるのね……。
マルグリット・デュラス(清岡卓行訳)『ヒロシマ私の恋人』(筑摩書房、1990年)

彼は彼女に何度も言う。君はヒロシマを見ていない、と。彼女は、見た、と言う。何度目かのやり取りの後、彼はさらりと告白する。あのとき、広島に?いないよ、もちろん。彼女がヒロシマと呼ぶ男は、ヒロシマを見ていなかった。それなのにも関わらず、彼はヒロシマとして彼女に対峙し、重なる。彼は、ヒロシマでありヒロシマでない。二人の間には、二人の見なかった、膨大な数の死があり、ヒロシマが横たわっている。その、死を覚えているであろう土の上に打ち捨てられた、Peaceの箱。そこにも、植物が生まれてくる。

恐怖によって恐怖を描写するということは、日本人たち自身によって行われていることなので、そういったことはやめてしまい、そのかわり、その恐怖を、ひとつの恋愛、それも不可避的に異常で、《感嘆させる》ものとなるだろうひとつの恋愛のうちに刻みこませることによって、それをその灰の中から蘇らせることこそ、この映画の重大な意図の一つとなるのである。そのとき、観客はその恋愛を、もしそれが世界のほかのどこでもいいが、死が貯蔵されていないどこかの場所で生じたかもしれない場合よりは、ずっとよく信じるだろう。
同上




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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi