星野博美『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』において、少年使節や当時の宣教師たちの足跡を辿るために長崎に出向いた著者は、あることに気づく。弾圧や虐殺が執り行われた場所はあまり目立たず、見つけづらい、と。21世紀に入って長崎市内で発見された17世紀のサント・ドミンゴ教会遺跡は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストには入っていない。その遺跡を訪ねた著者は、こう感じる。

それにしてもここでは、たった四〇〇年前にもかかわらず、まるで二〇〇〇年前のローマの遺跡でも見ているような印象を受けるのが不思議だった。ある特定の人たちが死にたえた、という滅亡感が漂っているのだ。
星野博美『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、2015年)

リストに含まれる教会群は18世紀の「信徒発見」以降に作られたものばかり。日野江城跡、原城跡は含まれるが、十分に保存・整備されているとは言えない。ある特定の人々が弾圧され、そして虐殺された歴史が十分に顧みられないままに消えようとしている。(2016年初頭に長崎教会群の世界遺産推薦取り下げが政府によって決定されている。それを受け、日野江城跡はリストから除外されることが決まった。)

島原にある二つの城に行くためにバスに乗った著者はまた、車窓から見た風景に感じた違和感についても言及している。海沿いの土地であるのにもかかわらず、人々が海から背を向けて暮らしているように見える、と。その理由について考え、気づく。ここにかつていた人々は島原の乱で死に絶えてしまい、他の土地から移住してきた人々の子孫が住んでいる。そして、島原の乱以降の支配者たちは、移住者たちの目を海ではなく陸へと向けさせるように仕向けた。海の向こうにある天草と、島原の乱が起きた原城があったこの地が再び結びつくことのないように。400年という年を経てもなお、その痕跡が見え隠れする。そして、原城跡周辺に点在する「原城跡を世界遺産に!」と書かれた幟を見て、虚無感に襲われる。

いい加減、虚しくなる。他のキリスト教関連遺産群はさておき、原城は、為政者と民衆の一騎打ちの場である。この地の存在意義を訴えるためには、「お上」がキリシタンをなぶり殺したことを世界に向けてアピールしなければならない。現代の「お上」の末端である公務員に、その覚悟を期待できるのか。またこの地には、弾圧された側の末裔がいない。
同上

弾圧された側の人間がいないという指摘に僕は驚く。そして、先日訪ねた網走の、ジャッカ・ドフニの看板を思い出す。いなくなってしまった、ウィルタの人たちのこと。四万とも言われるキリシタン(その多くは自国民だった)を弾圧、拷問し死に至らしめた負の歴史にどう向き合っていくのか。そう考えた時に、400年という時間軸は記憶を完全に消し去るほどに長いものではない。

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先日訪ねたマニラで僕は、ロレンソ・ルイスの名を冠した教会を訪ねた。にぎやかな中華街に建つ教会の中は静かで、祭壇脇には少年姿のロレンソ像が建っている。彼は聖者として列聖し、フィリピンでは多くの人に知られる存在だという。中国人の父とフィリピン人の母の間に生まれたキリスト教徒のロレンソは、ある時殺人容疑をかけられ、逃れるように日本へと向かう船に忍び込んだ。その船にはまた、キリシタン弾圧厳しい日本に潜入しようとする宣教師も同乗していた。その船は琉球に漂着してしまい、その場で宣教師やロレンソは逮捕、2年の拘留の後長崎に送られそこで殉教している。ロレンソが琉球に流れ着いたという事実に驚き、ふと気になって歴史を改めて調べて見る。薩摩の琉球侵攻は1609年。ロレンソが琉球についたのは1630年台半ば。キリスト教弾圧の時代と、琉球が日本に組み込まれていく歴史は、重なっている。ルイスは琉球のどの浜辺で捕まり、どこに捉えられていたのか。その足跡ははっきりしない。読谷に彼の名を冠した教会があるので、そこに聞けば何かわかるかもしれないと考えるけれど、信者でもないので少し気が引けてしまう。そして、セクシャルマイノリティである自分が長くキリスト教に抱いていた猜疑心が、胸の奥底に小さく残っていてなかなか氷解しない。でも、信仰を一旦脇に置いて、周縁に追いやられそして迫害された人々がいるという事実に向き合うべきだと感じた。400年など、そんなに長い時間でもない。そしてその弾圧は、形を変えて今も起こる可能性があり、世界のどこかで起こっているのだろうから。

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