赤坂真理『東京プリズン』。
1980年、アメリカに留学した東京生まれの高校生アカサカマリは、生活に、学校に、英語に、なによりも寒さに馴染めない。そこでマリは『天皇に戦争責任はあるか』との議題でディベートへの参加を余儀なくされ、彼女は、責任がある、という立場をとらされる。

私は以前、通訳なら痛みがないと思っていた。でも、今はちがう。声を取り継ぐのは、本質的な語りであり、通訳の在り方には、意識の本来的姿の秘密が隠されていると思えてならない。
赤坂真理『東京プリズン』(川出書房新社, 2012)

ディベートにおいて、マリは天皇が『人間』ではないから(神格をもつから)、彼に大きな決定権があり、戦争責任がある、との立場をとる。対するディベート相手であるアメフト部の人気者クリストファーは、それは傀儡であって彼は超越的決定権などもたず、彼には軍部ほどの責任はない、と反論する。
ディベートが進んでも、クリストファーは、権利者=男性であるとする男性中心主義的な立場を崩さない。そして実権を持たない天皇=女性の図式を作り上げようとする。歴史的な皇室の風習を取り上げて「彼(天皇)はファゴットだ」となじる。それに対しマリは取り乱して「he is a man!」と返す。ここで、マリとクリストファーとジャッジの間に冗談の様な誤訳が起こる。マリは衝動的にもう一度、HE is a MAN!と叫ぶ。彼は『男』だ、と。ジャッジは呆れて「Yes, yes, he IS a man(もちろん彼は『人間』だ)」と返す。でも神ではない、と。英語を満足に喋る事ができないマリには、まだこの『人間』の翻訳が入ってこない。彼女はMANという言葉の揺れの間で混乱しながらも、日本語を英語に変換し、必死で天皇に戦争責任はあったと論じる。心の中では、なかった、と思いながら。そんな中で、彼女はすでに『男でなくなった』日本について驚きをもって気がつく。

なるほど私の国の人たちは、戦争が終わって、女のようにふるまったのではないかと。男も女も、男を迎える女のように、占領軍を歓迎した。多少の葛藤はあったとしても、相手に対して表現せず、抵抗も見せなかった。
-中略-
戦争が終わったら、日本人全体がアメリカの前に”女”になったのか、それとも、軍部を一掃したから、あとには女が残ったのか?
(同上)

マリは改めて自分のディベートにおける立場を思い出し、「Maybe he is NOT a man」と、もはや自信なくつぶやく。それでも彼は『人間』ではなかったのだから、戦争責任があった、主権をもっていた、と。男であったか女であったかはこの際関係ないこと。言いながらもその発言に自信をもつことはできない。ここでディベート相手は、そのmanを『男』ではなかった、と取り違える。その通り、彼はファグだからね、と勝ち誇る。天皇は『女』であり女には責任能力などない、と。極めてミソジニックな反応をする。そして、マリは無様に負ける。
その後マリは小説内で起こるある奇跡をもって再びディベートの舞台に舞い戻る。彼女の耳に入る、誰かの声。その声を、英語に訳し論じ始める。彼女はまるで日本を通訳/代弁するかのように、アメリカに立ち向かう。途中、幻想のなかで天皇のような存在に対面したりしながら。
通訳とは、声なき声に選ばれた、声なのだ。声なき声こそが、本質的声であり、それこそが、聞かれるべき声であるから、私はここにいる。
(同上)
マリが通訳する声なき声は、哀れな敗者としての日本の声であり、その統一主義的な哀しみには、より弱いものたちの声が入る隙がないようにも思える。『われわれ』はあくまでも『われわれ』。日本もアメリカも、結局その『われわれ』にこだわりすぎているのかもしれない。他言語で語られる声なき声がノイズにしか聞こえないのであれば、それは『われわれ』にとって声なき声ですらない。通訳であるならば、そのノイズにこそ耳を傾けるべきなのかもしれないけれど、それが通訳の限界なのかもしれない。
新城郁夫さんの言うように、欲望の三角形において、日米のホモソーシャルな関係の媒体となる女性的な存在が沖縄だとしたら、日米の男同士の関係とその役割分担はいくぶん明白だけども、例えばアメリカの視点からは、日本も沖縄も『女』なのか。日本から見たとき、沖縄は何なのか。再び男になるための『女』なのか。日本が自ら進んで、私は女だ、と語りはじめた時、沖縄はどうしたらいいのか。僕が、沖縄人が、「Maybe he is NOT a man」と言うとき、それはどちらの方に振れるのか。そのとき、通訳としての僕は、どのような声を聞き取れるのだろう。



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(C) 2012-2015 Futoshi Miyagi